あの戦争を語り継がないで良いのか(その2)岡島利夫

高齢者の役割シリーズでは、標記に関連して、既にいくつかのお話を紹介してきたが、最近の政府の対応(財務省における行政文書の改竄・隠蔽、防衛省における南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣された陸上自衛隊の日報問題、厚生労働省では「裁量労働制の方が労働時間が長くなる」という “不都合なデータ”を隠蔽、文部科学省では、同省職員が,国家公務員法に定める再就職等規制に違反する事案の隠蔽等々)を見ていると、これらはいずれも“いつか来た道”と重なって見えるところがある。そしてこれら戦前・戦後の両者に共通していることは、お上(カミ)にあっては「知らしめぬ」態度、そして知っている者たちの「言わぬ、言えぬ」の空気、また、民にあっては「長いものにはまかれろ」的態度、そして知らなければ、知ろうとすればよいと思うのだが、無知をよしとしてかどうか知らぬが、見過ごすことをよしとしてしまうところが似ているように思える。物言わぬ国民性は変わっていないようだ。
私が今回、取り上げたいのは、その戦前の部分についてである。図書としては近代史研究家の一人である辻田真佐憲氏(1984年大阪府生まれ、慶應義塾大学文学部卒、同大学院文学研究科中退)の著書「大本営発表(改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争)」(幻冬社発行)と、右図書をベースとした読売新聞編集委員・丸山淳一氏による今年8月15日付け記事の抜粋を下記1.にて紹介しておきたい。
 また、下記2.においては、戦争責任の取り方として、思いつきのまま三例について触れておきたい。(1)は今回取り上げた大本営に当時所属し、国民にウソの宣伝をしていた参謀たちの戦後、彼らは何らかの処罰を受けたのか? (2)は、映画「私は貝になりたい」のストーリーについて、(3)は戦争中、日本に攻め進む連合軍兵士にとっての憧れの声(対連合軍プロパガンダ放送のアナウンサー)となった「東京ローズ」こと、アイバ戸栗さんのその後についてである。

1.「大本営発表はなぜ「ウソの宣伝」に成り果てたか」(丸山淳一記)
8月15日は終戦の日。先の大戦における軍部の独善・欺瞞の象徴として語り継がれるのが「大本営発表」だ。当時、最高レベルのエリート集団だった大本営はなぜ、繰り返しウソの戦果を並べ立てるに至ったのか。真相を探ると、現代の日本社会にも通じる病理が浮かび上がってきた。

(1)組織の欠陥が生んだ「ウソとでたらめ」
 終戦の日が来るたびに、「日本は、なぜ無謀な戦争に突き進んだのか」という反省が繰り返される。特に罪深いとされるのが、国民を騙し続けた「大本営発表」だ。 ウソとでたらめに満ちた発表は、今でも「あてにならない当局に都合のいい発表」の代名詞として使われる。戦果のごまかしは他国もしていたが、大本営のでたらめぶりは常軌を逸しており、「国民の士気を鼓舞するためだった」では片付けられない。そもそも大本営は天皇に直属する最高の統帥機関で、陸海軍のエリートが集められていた。発表は幾重ものチェックを経ていたし、ウソがばれれば国民の信頼を失い、戦争遂行が難しくなることも分かっていたはずではないか。 私がキャスターを務める「深層NEWS」では、『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(幻冬舎新書)を書いた近現代史研究者の辻田真佐憲さんをお招きして話を聞いた。辻田さんは、でたらめ発表が行われた背景に、「情報軽視」と「内部対立」という2つの構造的な欠陥があったと分析している。

(2)情報軽視の悪癖、現場の報告を鵜呑みに
 大本営発表が最初からでたらめだったわけではない。真珠湾攻撃の戦果は、航空写真を綿密に確認するなどした上で、3度も修正されている。戦闘機から見た艦船は点のようなもので、本当に沈んだのか、沈んだ艦は戦艦なのか、駆逐艦なのかを判別するのは、熟練度が高い搭乗員でも簡単ではないからだ。
 戦線が拡大し、熟練度が低い搭乗員が増えるにつれ、戦果の誤認が急増した。誤認は米軍にもあったが、大本営には情報を精査したり、複数の情報を突き合わせたりする仕組みがなかった。特に作戦部には現場からの情報を軽視する悪癖があった。根拠もなく報告を疑えば「現場の労苦を過小評価するのか」と現場に突き上げられる。誤った報告はみにされ、そのまま発表されていった。
 誤報の極みとされるのが、1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦に関する大本営発表だ。5日間の航空攻撃の戦果をまとめた発表は、「敵空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻を轟撃沈、空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻を撃破」。米機動部隊を壊滅させる大勝利に、昭和天皇(1901~89)からは戦果を賞する勅語が出された。だが、実際には米空母や戦艦は1隻も沈んでおらず、日本の惨敗だった。
 熟練度の高い搭乗員はすでに戦死し、作戦に参加したのは初陣を含む未熟な兵卒が大半だった。多くは米軍の反撃で撃墜され、鹿屋基地(鹿児島県)に帰還した搭乗員の報告は「火柱が見えた」「艦種は不明」といったあいまいな内容ばかりだった。だが、基地司令部は「それは撃沈だ」「空母に違いない」と断定し、大本営の海軍軍令部に打電した。翌日に飛んだ偵察機が「前日は同じ海域に5隻いた空母が3隻しか発見できない」との報告が「敵空母2隻撃沈」の根拠とされ、さらに戦果に上乗せされた。
 さすがに疑問を感じた海軍軍令部は内部で戦果を再検討し、「大戦果は幻だった」ことをつかんだが、それを陸軍の参謀本部に告げなかった。陸軍は大本営発表の戦果をもとにフィリピン防衛作戦を変更し、レイテ島に進出して米軍を迎え撃ったが、台湾沖で壊滅させたはずの米空母艦載機の餌食となり、壊滅した。各部署は大本営発表から戦果を差し引いた独自の内部帳簿を持っていたが、その数字は共有されず、共有しても相手は参考にしなかったという。

(3)「水増しと隠ぺい」内部対立がさらに歪める
 情報の軽視によって水増しされた戦果は、公表範囲を決める幹部会議に持ち込まれ、「軍事上の機密」を理由に都合の悪い部分が隠ぺいされた。報道部が大本営発表の文書を起案する時点で、すでに戦果の水増しと隠ぺいが実施済みだったわけだが、ここからは「内部対立」でさらに戦果は歪められていく。
 大本営発表は軍の最高の発表文で、起案された文書は主要な部署すべてのハンコがなくては発表できない。陸軍を例にとると、参謀本部に参謀総長、参謀次長、作戦部長、作戦課長、情報部長、主務参謀などがいて、陸軍省に陸相、次官、軍務局長、軍務課長らがいた。特に、作戦部にはエリート中のエリートが集まり、他の部署を下に見ていたという。他の部署は作戦部を快く思わず、何かにつけていがみあっていたから、すべてのハンコをそろえるのは大変な作業だった。
 それでも勝っているうちはよかったが、日本が負け始めると、どの部署もハンコをなかなか押さなくなった。「そのまま発表すれば国民の士気が下がる」というのは建前にすぎず、「敗北を認めると、その責任を負わされかねない」というのが本音だった。発表が遅れれば、報道部の責任が問われる。報道部はハンコが早くもらえるように、戦果をさらに水増しし、味方の損害を減らした発表文を起案するようになった。

(4)予期せぬ敗北で損害隠し…ミッドウェー海戦「日本の勝ち」
 軍内部の対立で大本営発表が歪められるきっかけとなったのが、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦の大本営発表だ。霞が関の海軍省・軍令部では祝杯の準備をして戦勝報告を待っていたが、飛び込んできたのは空母4隻を失う予想外の知らせだった。開戦以来初めてとなる大敗に直面し、これをどう発表するかをめぐる調整は難航を極めたという。
 報道部は「空母2隻沈没、1隻大破、1隻小破」とする発表文を起案したが、作戦部が猛反対した。3日後に発表された味方の損害は「空母1隻喪失、1隻大破、巡洋艦1隻大破」に減らされた。一方で、敵の損害は「空母1隻の大破」が「2隻撃沈」に水増しされ、「沈めた空母の数で日本の勝ち」と発表された。
 報道部の担当者は戦後、ミッドウェー海戦の大本営発表のなりゆきについて、「真相発表とか被害秘匿とかそんなものを飛び越えた自然の成り行きであった。理屈も何もない」と述懐している。誰かの決定も指示もなく、あうんの呼吸で部署間のバランスに配慮した結論が出された。情報軽視と軍内部の対立という欠陥は放置されたまま、空気を読んで戦果を忖度し、でたらめを発表する仕組みができ上がった。
 良心の呵責もあったのか、ミッドウェー海戦以降、いったん大本営発表の回数は激減する。しかし、しばらくして再び増え始めた大本営発表には、当たり前のようにウソが混じるようになる。辻田さんは「ウソをつくことを覚えたのだろう」と分析する。海軍はミッドウェーでのごまかしは、すぐに勝って帳尻を合わせればよいと思っていたようだが、戦いの主導権は二度と戻らなかった。
 一部の海戦については後から戦果を訂正する発表もあったが、これは誤りが判明したからでなく、過去のウソから生じた矛盾を取り繕うためだった。しかし、同時に新たなウソをついていたから、実際の戦果との開きは拡大するばかりだった。

(5)「撤退」は「転進」…言い換えで責任不問に
 1943年(昭和18年)になると、ごまかしは戦果以外にも及ぶ。ガダルカナル島からの撤退は「転進」に、アッツ島の守備隊全滅は「玉砕」に言い換えられ、大本営の作戦や補給の失敗は不問とされた。
 44年(昭和19年)以降、本土が空襲にさらされ、戦いの前線が迫ってきても、大本営はウソを発表し続けた。ごまかしや帳尻あわせが破綻した後は、神風特別攻撃隊の攻撃が発表の目玉に据えられた。特攻隊の戦果は大幅に水増しされたが、国に身を捧げて得た戦果を疑うことは許されない。大本営は特攻隊まで戦果の取り繕いに利用したのだ。
 辻田さんの集計によると、大本営発表では太平洋戦争中に敵の空母は84隻、戦艦は43隻が撃沈されているが、実際は空母は11隻、戦艦は4隻しか沈んでいなかった。でたらめな戦果は昭和天皇にも奏上され、天皇は戦争末期に「(米空母)サラトガが沈んだのは、今度で確か4回目だったと思うが」と苦言を呈したといわれる。
 太平洋戦争を首相として主導した東条英機(1884~1948)は、大本営発表の内容については電話で数回要望を伝えてきただけで、「敗北を隠せ」といった指示はしていない。
 東条については、日米開戦前日に昭和天皇が開戦を決意したことに安堵し、「すでに勝った」と高揚していた様子を記すメモの存在が明らかになった(詳細は8月14日の読売新聞朝刊に掲載)。「暴走」誰も止められず…メディアの責任も。

2.戦争責任の取り方
 そもそもあの戦争の責任は、だれがどうとったのか?と言った大上段に構えた話をここでするわけではない。冒頭にて言及したとおり、順次思いつきのまま次の通り。
(1)大本営報道部員たちの戦後(上記図書「大本営発表」より)
 その一人、平櫛孝中佐は1944年4月第43師団参謀としてサイパンに赴任、同年7月のサイパン島の戦いにおいて捕虜となった。富永謙吾海軍中佐は、1944年3月、パラオ根拠地隊参謀としてパラオ本島に赴任、同島には米軍が上陸してこなかったため、戦後まで生き延び、防衛庁研修所戦史編纂官をつとめた。宣伝のエキスパートと言われた松村秀逸陸軍少将は、敗戦間際の1945年7月に第59軍参謀長として広島に移動、翌月、被爆し負傷するも、戦後は参議院議員を二期務め、法務委員長にも就任している。開戦時の報道部長であった大平秀雄陸軍少将は、戦後も長生きし、1995年に96歳で病死した。同人の従弟に第68代内閣総理大臣・大平正芳がいる。
 なぜ、ここに彼らにつき紹介したかというと、以下紹介する処刑されたBC級戦犯たちや、「東京ローズ」こと、アイバ・戸栗さんたちの戦後の処遇と比較して欲しいと思ったからである。
(二)映画「私は貝になりたい」
これは我々団塊の世代にとっては忘れられない映画の一つである。元陸軍中尉・加藤哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」の遺言部分をもとに、橋本忍の脚本で制作されたテレビドラマおよび映画であり、フィクションである。あらすじは、第二次世界大戦中の昭和19年。高知県在住の平凡な一理髪師に赤紙が届く。内地のある部隊に所属した主人公は、ある日、撃墜されたアメリカ軍B-29の搭乗員を裏山で発見する。そこで彼は、隊長から銃剣で刺殺するよう命じられる。躊躇する主人公に対し、隊長は、“上官の命令は天皇陛下の命令と思え“と強要される。一兵卒である彼にその命令を拒む余地はない。終戦後、帰郷した彼のもとに特殊警察がやってきて捕虜を殺害したBC級戦犯であるとして逮捕される。彼は命令に従っただけであると精一杯弁明するも、検察官から「あなたはなぜそれを拒まなかったのですか?」と問われ、彼は検察官に対し「あなたはどこの国の兵隊の話をしているのですか?」と反論するも、結局、死刑を宣告される。彼は処刑の日を待ちながら「もう人間には二度と生まれてきたくない。生まれ変わるなら、深い海の底の貝になりたい」と遺書を残すという内容である。命じた者より実行犯に対して厳しい英米法理に基づくものであり、この種の裁判によって、一銭五厘の赤紙一枚で召集された善良なる国民たちの命が絶たれた事例は多々聞く。戦後、シンガポールにて開廷された戦争裁判の一場面は「活動報告」の一つとしてHP上に小説「君は満開の桜を見たか」の中に記述しておいた。また、機会があれば未だフィリピン奥地の山野に放置されている37万ともいわれる戦没者の遺骨と疑惑の収集活動にまつわる話や、シンガポール日本人墓地の片隅にとり残されている戦犯の遺骨返還についての、評論家・田原総一朗氏との係わりについても話もしてみたい。
(3)「東京ローズ」のその後
私が彼女・アイバ戸栗さん(アイバ・戸栗・ダキノ(Iva Toguri D'Aquino)とシカゴでお目にかかったのは、多分、1977、8年のころである。当時、シカゴで日本食料品や雑貨を手に入れるため、彼女が経営するグローサリーをたびたび訪れた。彼女は明らかに日本語より英語の方が話しやすそうであった。また、明らかに戦時中の話には触れられたくない気配があった。他の日本人客もあえて当時の話には触れないようにしていたようである。当然、現地日本人会との接触もなかった。もっとも彼女は、両親とも日本人の移民であり、彼女は1916年7月4日、ロサンゼルス生まれの日系アメリカ人二世である。彼女は幼少のころからアメリカ人風に育ち、育てられた。日本へは彼女が大学生の時、1941年7月に親族訪問の為、来日したが、同年12月に太平洋戦争が始まりアメリカへ戻ることができなくなった。その間、米国では日系人の強制収が始まっていた。母親は日系人収容所への途中に病死している。他方、日本において彼女は何度も、特高警察から日本国籍への帰化の圧力をかけられたが、拒否し続けた。彼女は日本での生活のため同盟通信社や日本放送協会等でタイピストやアナウンサーとして勤務した。終戦間際の1945年(昭和20年)7月、長年同棲関係にあった、日系ポルトガル人の同盟通信社員のフィリップ・ダキノと結婚した。しかし、占領軍が上陸するとすぐに、東京ローズへの日米マスコミの取材合戦が繰り広げられ、彼女は一躍、時の女となった。その後、彼女はGHQより呼び出され、反逆罪の容疑で巣鴨プリズンに11か月間収監、アメリカ本国に強制送還された。裁判は1949年7月5日にカリフォルニア州サンフランシスコ連邦裁判所で開始された。裁判で弁護側は、アイバ・戸栗にはアメリカへの反逆の意思はなく、上司の指示通りの仕事をしただけであり、無罪であると主張した。一方検察側は、反逆の意思の有無に関係無く、放送に参加していたこと自体が反逆行為であると主張した。1949年9月29日に下った判決は有罪で、禁錮10年と罰金1万ドル、アメリカ市民権の剥奪が言い渡された。アイバ・戸栗は6年2ヶ月の服役後、模範囚として釈放された。しかし、1970年代になると全米日系人市民同盟等からの働きかけが功を奏し、1977年1月19日、フォード大統領は彼女に特赦を与え、アメリカの国籍を回復した。その後シカゴに転居し、父が創業した輸入雑貨店「戸栗商店(J. Toguri Mercantile Co.)」で、晩年まで働いていた。当初は反逆者の汚名を着せられたアイバ・戸栗であったが、晩年の2006年1月には、「困難な時も米国籍を捨てようとしなかった“愛国的市民”」として退役軍人会に表彰された。2006年9月26日、脳卒中のため、90歳で死去した。                   以上