オペラ歌手・中島康晴との出会いと背景岡島利夫

 10月17日に開催される「中島康晴テノール・リサイタル」については、クラブHPのお知らせ欄に掲載されており、彼のプロフィール等の詳細については、右にて承知してもらいたい。私としては高齢者が有為の芸術家等を育て、支援することも高齢者としての一つの社会貢献と考えている。
 中島氏とは彼が30歳代はじめからのお付き合いであるが、現在はミラノを居住地として、主にヨーロッパ各地で開催される音楽祭などで活躍されている。日本へは年に1~2度しか帰ってこない。帰国時には食事を共にしつつ近況報告を受けているが、昨年秋に帰国の際に、私から世阿弥著の「風姿花伝・花鏡」の現代語版一冊と、その中から名言のいくつかを抜粋し、プリントして手交しておいた。欧州には欧州の舞台哲学なり、所作があろうが、日本にも世阿弥による舞台芸能者としての心得なるものがあるので、一読しておいて欲しいと述べておいた。
 その中から一つ紹介しておく、皆様にも馴染みのある「初心、忘るべからず」という言葉があるが、それは世阿弥が編み出したものである。今では、「初めの志を忘れてはならない」と言う意味で使われているが、世阿弥が意図とするところは、少し違う。世阿弥にとっての「初心」とは、新しい事態に直面した時の対処方法、すなわち、試練を乗り越えていく考え方を意味する。人生、時々の試練をどう乗り切るかを語っている。よって当然、「老後の初心、忘るべからず」もあるわけで、老後になっても、初めて遭遇し、対応しなければならない試練がある。歳をとったからといって、「もういい」ということではなく、其の都度、初めて習うことを乗り越えなければならない。これを、「老後の初心」というと説いている。

ここでは、私と彼との出会いと、スリランカ(セイロン)と真珠との関係等を下記のとおり「真珠」と題して簡単に紹介しておく。今回のリサイタルで歌う曲目の中には、私からのリクエストを受け、ビゼー作の歌劇「真珠採り」から“耳に残るは君の歌声”を入れてくれた。

『真珠』


   序
 1.CD探し
 2.劇「真珠採り」
 3.スリランカの真珠って有名なの?
 4.レオナルド・ウルフ
 5.映画「真珠」
 6.チロウ周辺
 7.スリランカ・シンフォニー・オーケストラ
 


 ある日、日本ヴェルディ協会理事であり、あるオペラ事務所を経営する友人(元三菱商事社員)から久しぶりにメールが届いた。委細はともかく、ポイントとしては「スリランカでは真珠が沢山採れるのですか?」、「自分の経営する音楽事務所に所属する、テノール歌手の中島康晴がこの度、日本人としては初めて、ヴェネチア・フェニーチェ座を率いて日本公演を行うことになった。その中でビゼー作のオペラ”真珠採り”に主役ナディール役として出演する。ついては岡島がスリランカにいる内に、どのようなところか一度一緒に現地を訪れてみたい」とのことであった。この時点で私はまだ、”スリランカ=真珠”なる発想が連結していなかった。なんと! このジョルジュ・ビゼー作曲(1863年作)のオベラ”真珠採り(Les pecheurs de perles)”物語の舞台は当時のセイロンであることを知った。
世界が認める永遠のソプラノ歌手、マリヤ・カラス曰く、ベルカント唱法の神髄は「楽譜を読み・歌いこなすことではなく、その役になりきることである」 しからばその舞台である現地を予め見ておきたいとの気持ちは理解できる。でもここで一つ矛盾がある。作者であるビゼー自身、”カルメン”の時もそうであるが、スペインを訪れたことはないし、まして当時”真珠採り”作曲に際し、ビゼーは生涯セイロンを訪れることはなかった。本件と直接関係ないが、スリランカでおなじみの明石康日本政府代表の夫人は、上記日本ヴェルディ協会(NPO)の会員である。

1.CD探し
 スワ! まずこのオペラを私自身が聴かなくては話にならない。コロンボ市内でクラシックCDの在庫がある店は少ない。一つはこの店の主人が日本の「東急ハンズ」に魅せられ立ち上げた「ランカ・ハンズ」の2階にある”Mabroc Trades(PVT) Ltd.”とショッピング・センターArenaに隣接するCDショップ”Vibration”である。私はそれらの店に飛んだ。店員と話しても埒が開かないことが多い当地であるので、すぐに「主人はいますか?」と尋ねた。親爺曰く「ビゼーはない。必要なら取り寄せるが2-3ヶ月かかる。”真珠採り”の舞台がセイロンであったことは知らなかった。良い話を聞かせてもらった」とのことであった。「では取り寄せて欲しい」と一応お願いしつつ、ちょっと在庫を調べさせて欲しいと申し出て、自分で棚をチェックした。ニュージーランドのソプラノの名花、キリ・テ・カナワのCDジャケットにある目と目が合った。「ここにあるよ!」と訴えているかのような眼差しであった? カナワ手持ちの比較的ポピラーな曲の寄せ集めCDではあるがその第7番目に”真珠採り”の一部「Bizet:Ma voila seule.. Comme autrefois (from The Pearl Fishers)」を見つけた。私は勝ち誇ったようにそのCDを店の親爺達に指し示した。「これはすごい。早速、”真珠採り”全曲版のCDを取り寄せる」と確約してくれた。
 他方、この約束もいつのことになるかとの危惧があったので、日本の家族に連絡し、創業110年になる銀座の老舗「山野楽器」に飛んでもらった。店員の説明ではカタログ上、国産の物としては東芝「EMI」(Classics)グランド・オペラ・シリーズにフランスの巨匠クリュイタンスが1954年にパリ・オペラ・コミューク管弦楽団を指揮したビゼー歌劇”真珠採り”の全曲CD版があるも、現在絶版となっている。銀座店には在庫がないが、全国照会をかけ数日中に回答するとのことであった。ピッタと数日後、どことは言わなかったが地方店に1枚だけ在庫が見つかった。宅急便で取り寄せる(無料)ので一両日お待ち願いたいとの連絡が入った。ピッタと一両日後、当該CDを銀座店に用意しているので取りに来て欲しいとの連絡があった。同CDはテープ録音からCDに起こしたいわば復刻版のようなものであり、モノ(ステレオにあらず)であるため、多少音質に不満足感は残るが、当時のセイロンの漁村を舞台に、一人の美貌の女性と二人の男性の友情と恋の物語そのものは結構感動ものであった。そのCDジャケットの解説をもとに、感動の話であるので、その見せ場の概要を次の通り引用しておく。

2.オペラ「真珠採り」
(見せ場の概要)

登場人物:
   レイラ:二人の男の愛の狭間に生きる美貌の尼僧。
   ナディール:村の若者の一人。ズルガの旧友。
   ズルガ:漁師の頭領。
   ヌラバッド:高僧。
 その他:村人(漁民)。

場所・背景:未開の時代のセイロン島で、真珠採りを生業としているとある漁村。当時のセイロンはペルシャ湾岸と並び真珠の産地として有名であった。

  浜辺の集会で真珠採りの漁民たちが陽気に騒いでいる。
村人:「さあ、われわれの新しい頭領を選ぶ時がきた」
  村人から、ズルガ・コールが起こる。
村人たち:「ズルガ! ズルガ! ズルガ!・・・・」
  ズルガが壇上に押し上げられる。拍手と歓声が起こる。
ズルガ:(手を振りながら)「分かった。分かった。この村のために全精力を使い果たす    ことを誓おう!」
  村民から大きな拍手 
  舞台下手から、一人の男が登場する。ズルガの旧友ナディールである。二人はかつて、美しい乙女レイラに恋をした。ナディールは身を引き森深く狩猟の旅に出る。二人の男との愛の葛藤に悩んだレイラは人知れず村を出て行方不明となる。そんな過去を持つナディールとズルガは久々の再会を果たす。 
ズルガ:「おお! ナディールではないか。元気だったか。よう戻ってきた。過去のいきさつは水に流そうではないか。これからは手を携えてこの村のために共に働いてくれ」 ズルガは、ナディールを壇上に招き上げる。村人から大きな拍手が起こる。
  その時、浜辺に一艇の舟が近づいてくる。
ナディール:「ズルガ、あの舟はなにか?」
ズルガ:「あれは、真珠採り達が仕事をしている時に、悪霊を祓って安全を守るために祈って貰うよう頼んだバラモンの高僧と尼僧だ」
  浜辺に舟で到着した二人を、村人たちはうやうやしく出迎える。尼僧はヴェールで深く顔を隠している。高僧と尼僧はズルガのもとに歩み出る。
ズルガ:「これは、これはヌラバッド尊師殿、遠路はるばるのご来訪ありがとうございます」
  ヴェールを被ったままの尼僧は頭を持ち上げズルガを見上げる。その隣にはナディールも侍立していた。それを見た尼僧は大きく後ろにのけぞった。それを見たズルガは尼僧に言った。
ズルガ:「尼僧よ! 貴女がヴェールを取らずに、昼も夜も祈祷に専念し、純潔を守り通すことができるのなら、貴女には美しい真珠が、しかし、もし、この約束が守られない場合には死が与えられることになるがよろしいか?」
尼僧:「お約束をお守り致します」
  その声に動揺の色を感じたズルガは、改めてその尼僧に念を押した。
ズルガ:「今なら、この誓いを取り消すことができるが、如何いたすか?」
尼僧:「このお約束をお守りすることを誓います」
  この二度にわたる尼僧の短い声、それは紛れもなくレイラの声であることを、ナディールは気づいてしまった。ヴェールを通してであるが、予期せぬ対面を果した二人、ズルガの手前、お互いに名乗り合うことは出来ない。高僧と尼僧は静かに祈りの場へと歩み去る。
※(人々も去り、夕暮れが迫る中、一人残されたナディールは、今もなお胸に残るレイラへの愛を切々と歌い上げる)
※(レイラは、祈祷の歌でこれに応える)
  祈祷の後、高僧はレイラに言った。
高僧:「あなたはここに残りなさい。武装した護衛が夜通しあなたを守っているから、誓いさえ守っていれば、何も心配することはない」
尼僧:「はい、幼い頃、逃亡者を救ったことがありますが、その方からお礼にと戴いた見事な真珠の首飾りが、お守りとしてここにありますから、私には何も怖いものはありません」
  高僧が立ち去り、静寂が周囲を包む。突如、暗闇からナディールが現れる。
ナディール:「おお! レイラ! 何と思いがけない突然の出会いであろうか。あの時、私はあなたの元を離れ、今日まで森林の中に身を投じて、獣を追いながら生きながらえて来たが、一日たりともレイラ、あなたのことを忘れたことはない。さあ、共に逃げよう」
レイラ:「ああ! ナディールさま。 私とて貴方様のことをお忘れしたことはありません。しかし、叶わぬ恋と覚悟してからは、こうして尼僧としての修行に励んでまいりました。それに今日、ズルガさまに対し、ヴェールを取らず、祈祷に専念することをお誓い申し上げたばかりでございます」
ナディール:「レイラ、こうして貴女とめぐり逢ってしまった今、私にはもはや貴女を尼僧の世界に戻すことはできない。さあ、ぐずぐずしていては護衛の者に感づかれてしまう。早く二人で森の中に逃げよう」
  強引にレイラの手を引くナディール、その手がヴェールにもかかり、ヴェールが地に落ちる。月明かりの中にも、その変わらぬ美しい目鼻立ちは、レイラには歳の立つのを忘れてしまったかの様であった。
  遠くから銃声が響いた。村人を引き連れたズルガがこちらに向かって来た。
レイラ:「ナディールさま、早くお逃げください。早く」
ナディール:「レイラ、また明日の晩ここで会おう」
  ナディールは一時逃げ延びるが、村はずれで騒ぎを聞きつけた村人に捕らわれる。村人たちは短刀を手に、手に、ナディールの死を迫る。
村人たち:「ナディールに死を! ナディールに死を!」
ズルガ:「皆の者の待ってくれ。このナディールは我が友だ。これは何かの間違いだ。そうだな、ナディール?」
  無言のナディールの元に、ヴェールを剥ぎ取られた尼僧、レイラも引き立てられて来る。ズルガは驚きをもって尼僧を、いやレイラを見つめる。
ズルガ:「レイラ! お前だったのか?」
ズルガ:「ナディール! お前!」
  嫉妬の炎が燃えたぎるズルガは言った。
ズルガ:「二人とも死刑だ!」
レイラ:「ズルガさま、どうぞナディールさまだけはお助けください。私は誓いを破った者でございますので、いかような処分も甘んじて受ける覚悟はできていますが、どうぞナディールさまだけはお助けください」
ズルガ:「わしのお前への愛は、だれにも負けぬ海のように深いものである。レイラよ。お前にはそれが解らぬのか」
  激しい嫉妬の虜となったズルガは、レイラを愛して止まぬ気持ちを切々と訴える。
レイラ:「ズルガさま。どうぞお許しください。若き日より今日まで私のナディールさまをお慕い申し上げる気持ちは些かも揺らいだことはありません」
ズルガ:「レイラ、お前のナディールへの思いがそこまでのものとは知らなんだ。もはや私には二人の心を引き裂くことは出来ないようだな。しかし、誓いを破った二人を村人たちが許すことはないであろう。今の私にはそれを止めることは出来ない」
レイラ:「解りました。ズルガさま、最後に一つお願いがあります。私は尼僧ゆえ、取り立てて持ち物などございませんが、ここにあります首飾りを、どうぞ母上様に私の形見としてお届け願います」
ズルガ:「承知した。皆の者、この二人を引き立てえ!」
  一人残されたズルガは、改めてレイラから手渡された首飾りを見つめる。ズルガが驚き、叫ぶ。
ズルガ:「何としたことか。この真珠の首飾りは、私がかつて逃亡者として森に追い詰められた時、山小屋にかくまってくれた少女にお礼にと与えた首飾りではないか。あの時の少女がレイラだったのか」
  森の中にしつらえられた処刑場では、村人たちが二人の処刑を待って興奮している。二人が処刑台へ引き出されそうになった時、村の方で赤い炎が立ち上がるのが見えた。
ズルガ:「皆の衆、火事だ! 村が火事だ!」
  村人たちは、驚いて刑場を離れ村へ戻る。
  刑場に取り残された二人の元に、ズルガが現れる。
ズルガ:「レイラよ。その昔、おれが逃亡者であった時、おれはお前に助けられたことがある。この真珠の首飾りはその時、おれがお前にあげたものだ。ナディール! 友よ!このレイラを頼む、早く逃げよ。あの火はお前たちを逃がすために、おれが付け火をしたものだ。もうじき村人たちも再びこちらに戻って来よう。さあ、早く逃げろ」
  ズルガは二人の縄を斧で断ち切る。
ナディール及びレイラ:「ありがとう。ズルガ!」
  二人はズルガを残し、手を取り合って森深く逃げ込む。間もなく、高僧ヌラバッドを先頭に、村人たち追っ手がやってくる。ズルガはそんな追っ手の前に立ちはだかり、迎え撃つ。ズルガは致命傷を負いつつ倒れ、つぶやく。
ズルガ:「レイラ! あなたを愛していた・・・」
※(遠くにナディールが歌う「耳に残るは君の歌声」が、ズルガの耳元に聞こえる)
  ズルガは途絶する。
       終わり

3.スリランカの真珠って有名?
  さて、次なる課題は「スリランカの真珠って有名なの?」の問いに答えなければならない。宝石なら間違いなく有名なんだけど、真珠? 何はともあれ市内の有名宝石店「Zam Gems」と「Careem」に飛んだ(すぐ飛ぶ)。店員では話にならないので、主人はいるか?とまた始まった。なに居ない? 仕方がない「真珠」のこと判る人と話がしたいと申し入れた。「真珠なんかスリランカで採れないよ。真珠と言えばお前の国・日本が輸出のトップだろうが」。更に食い下がる。スリランカでも昔は採れたと聞くが? 「さあ?」これでは埒が開かない。自分で真珠がスリランカにたどり着く糸を少しずつたぐり寄せなければならなくなった。
  まず、当国漁業・海洋資源省に電話を入れた。担当官も突然の問い合わせであり始めはしどろもどろではあったが、後日また連絡することで若干の情報が得られた。スリランカ(当時セイロン)でも約100年前までは真珠採りが盛んであった由。ものの本では、古くは古代都市アヌラーダプラが栄えた時期、ギリシャと中国を結ぶ海洋交易の中継点的位置にあったこともあり、フェニキアの商人達がすでにこの地の真珠と宝石を求めて上陸していたと言われている。19世紀当時は、地域としてセイロン島の北西部(マナー半島からチロウあたりの海岸づたいの入り江等)での採取が中心であった。例えば19世当時は英国の指導の下、資源保護の観点から非常に管理された採取が行われて居たようである。その100年間で採取が認められたのは合計たった36年間であり、若い貝の採取は禁止されていた。19世紀と言えばイギリスにおいてはヴィクトリア女王(在位1837-1901年)の時代であり、同女王の王冠はセイロン産出の宝石と共に約300個の真珠で飾られている。20世紀に至り日本の真珠養殖技術が発展し、スリランカでの真珠採りは採算が取れず全滅した。勿論真珠採りのもう一方の雄であったペルシャ湾での採取も全滅したことはいうまでもない。因みにペルシャ、セイロン、日本において真珠を作り出す貝の種類はアコヤ貝であり共通の貝である。食用面では、最近では1957年にオイスターに起因するコレラの大発生があり、その後スリランカでは食用オイスターとともに真珠採取もまったく消滅してしまった。勿論その後も真珠養殖等の試みが北東部トリンコマリー湾周辺で行われたが、ご存じのように海だというのに虎(LTTE・シータイガー)が出没するため真珠養殖計画は頓挫しているとの説明であった。
 ここまで来て、どうしても読んでおきたい一冊の本があった。ロバート・ノックス著「セイロン島誌(An Historial Relation of the Island Ceylon)」である。この作者は1660年4月、当時19歳の時、イギリス東インド会社に所属する船の船員として仲間とともにセイロン島に上陸(現在のトリンコマリー近郊)したものの、当時主としてセイロン島の内陸部を支配していたキャンディ王国の司直によって囚われの身となり、1679年10月、セイロン北部を占拠していたオランダの砦に逃げ込むまでの約20年間に及ぶその虜囚生活を克明に書きつづった記録である。いやこれは単なる捕囚記ではない。今日に至るまでセイロンを語る第一級の博物誌であるとの評価を受けている。当時のセイロン島の自然条件や産物、文化、社会・政治構造、庶民の暮らしぶり等が克明に描かれている。ノックスがその後、無事にロンドンに帰着したのは、1680年9月であり、本書の出版が1681年9月頃と言われているから、当時としては超スピードでの出版であり、発行元の期待も大きく、予想通りの大評判となった。その後はフランス語やドイツ語、イタリア語等での出版も行われている。ポイントはこのセイロン博物誌とも言われるこの本に宝石についての記述はあるも真珠についての記述がないことである。かつてのセイロンは海のシルクロードの要所として、東南アジア、インド、アラビア、ローマとの交易が盛んに行われ、主な輸出品は真珠、宝石、象牙等であったことが広く知られているからである。
 まあ、仕方ないとがっかりしている頃、2003年11月1日付け現地英字紙のDaily Newsはその21頁全面を使い、1940年台の北西部マナー湾における真珠採りの様子を撮った写真を掲載しつつ、セイロンにおける真珠採りの歴史を解説してくれていた。そこには日本他での養殖真珠が世界を席巻するまでの間、真珠は宝石と並び、セイロンに富をもたらす重要な産品であったこと、古くはギリシャ、ローマの記録にも描かれていること等が記述されている。

4.レオナルド・ウルフ
  また、先の新聞記事の中でもう一つ興味をそそった記述がLeonard Woolfに関するものであった。ウルフは英国より派遣された植民地行政官の卵として1906年2月20日から4月3日までの間、ジャフナにおいて真珠採取公社の見習い役人として配属されていたこと、真珠集積場には遠くペルシャ、アラブ、インド他アジア各地からの海士、各種労働者や商人等々25,000人以上の居住地となっていた由。面白いのは採取に鮫の危険はつきもであった様であり、つねにシャーク・チャーマーが活躍していたそうである。また、町では高値で売れる極上の真珠を巡っての犯罪やトラブルが絶えず、真っ先に必要になった行政組織は警察と刑務所であった。因みに、この当時(1900年初頭)のセイロンでの真珠採りの様子は市内にある画商店に行くとセピア色の古い写真として残り、販売されている。ただし、複製の写真にしては一枚6~7,000ルピーと女中の一ヶ月分の給料並に高いのは納得できない。また、その写真に写る海士の多くはアラブ人として紹介されている。嘗ての海洋帝国ザンジバルの末裔、オマーンあたりからの出稼ぎ者と思われる。
 この新聞記事において「幸いにも、我々は当時の様子をレオナルド・ウルフの小説"Village in the Jungle"において活き活きと知ることができる」と記述されている。Who is Leonarld Woolf?  What is the Village in the Jungle? 多くのスリランカ人はこの人の名前とこの小説を知っている。この小説は1980年に同名「ジャングルの村」で映画化され、82年の「南アジア映画祭」を通じ、日本で紹介された最初のスリランカ映画である。レオナルドについてここで多くを語るつもりはないが、彼は1880年ロンドンの裕福なユダヤ人家族に生まれ、1904年(24歳)から1911年(31歳)までの間、英国植民地の行政官としてセイロンに赴任した。1912年に帰国したレオナルドはケンブリッジに集う知的グループに入り、妻となるヴァージニア・スティーヴンと出会う。また、そのグループには後に著名な経済学者となるケインズがいたことも知られている。日本では多分このレオナルドより、妻となったヴァージニア・ウルフの方が有名ではないだろうか。小説家として、フェミニストとして早くから女性と創作活動、女性と平和などの問題を社会に提起していた人物である。”ヴァージニア・ウルフなんか怖くない”と怖れられていた。

5.映画「真珠」
 映画ついでに映画「真珠」について触れておこう。しかし、取り敢えずはスリランカと直接関係はない。「怒りの葡萄」「ベニーの勲章」と同じくジョン・スタインベックの小説の映画化で、1947年に出版されベストセラーとなった小説をスタインベックがエミリオ・フェルナンデス監督と協力し制作したものである。舞台はメキシコ、撮影もメキシコであった。ストーリーの元はメキシコに古くから伝わる話とのことである。日本では角川文庫となっているので簡単に入手できると考えていたが、現在絶版とのことであるので簡単に触れておく。ここはメキシコのとある寒村「貧しい漁師夫妻(キーノとファナ)には赤ん坊が病気になっても医者に払う金がない。ところがある日、海で信じられないほどの大きさの真珠が手に入いる。これから彼らの生活と人生が狂い出す。夫婦は一時、金持ちになれるとの夢が膨らむ、しかし、そんな大真珠を奪おうと狙う者や、腹に一物ある真珠買い等が次々と現れ、家族は逃亡の生活を強いられる。やがて悲しい出来事に遭遇する・・・・」ここまでとしておく。
 スリランカとの関係はこれからである。スリランカの映画監督ベナットゥ・ラトゥナーヤカの第一作映画「告白(The compensation)」は、このスタインベックの小説「真珠」を翻案、舞台をメキシコの海からスリランカのジャングルに移し、美しい自然を背景に夫婦の封印された過去が順次語られていくストーリーとなっている。スリランカでは2001年12月に上映されロングランとなった。日本では福岡での「スリランカ映画祭2002」ですでに上映済みである。

6.チロウ周辺
 さて、少し目先を変えて外出してみよう。と言っても、セイロンにおけるかつての真珠の産地であるマナー方面はシータイガーのみならず、本物の虎(LTTE)が出そうなので行けない。先に触れたごコロンボにも近いチロウあたりを徘徊してみよう。
チロウはコロンボの北、約80kmの漁村。国道A3を北上しチロウに近づくとココヤシ林の中を走り続けることになる。スリランカでも西部海岸地帯は、16世紀に香料を求めてやってきたポルトガルやオランダによって最初に植民地化された地域であり、紅茶やゴムに続いて英国が導入した換金作物のココヤシは、19世紀後半このチロウを中心として作付け面積が急激に拡大した。
 漁業に関しては、19世紀後半になると、チロウ周辺の漁村から干し魚がコロンボに運ばれて売られていた。また、船で鮮魚がコロンボに運ばれた。20世紀になると陸路が完備され、1912年にはバスが走り、コロンボへの移動が便利となった。また、1916年にはチロウまで汽車が走った。19世紀初頭の国内交通網の発展により、チロウやポルトガル時代からの砦のあるネゴンボ出身の漁民がブッタラム周辺の西岸海岸地域ばかりでなく、東北海岸にあるムッライッティーヴ方面への移民が行われた。
宗教的には、西岸部の漁民の多くは16世紀にポルトガル人によって強制的に改宗されたカトリックであり、この地域の住民の漁民たちの特徴となっている。彼らの多くは本来タミール語を母国語とするタミール系のカトリックである。現在彼らは自らシンハラ人と見なしているようであるが。昼近くの魚市場となる入り江に寄せられた小舟からは、イワシ系の小魚や川エビのような小物が陸揚げされていた。朝早くには沿岸から捕らえてきた大物の魚も浜辺や市場に多数上がる由。魚市場であった人や近くにあるレスト・ハウス(Rest House, Chilaw, Tel.031-2222299)のマネージャー等にかつて採れたと聞く真珠貝の話を問いかけるも、そんな話は今や全くないとにべもない。しかし、ここがスリランカ漁民の発祥の地であることは間違いないようである。期待していたポルトガルやオランダの遺跡はなかった。もう少しコロンボ側に南下した町ヘンダラには1842年に建設されたポルトガル風のカトリック教会があり、周辺住民の精神的拠り所となっている。

6.スリランカ・シンフォニー・オーケストラ
 最後にスリランカ・シンフォニー・オーケストラについて触れておく。この組織の詳細は、そのオフィシャル・サイト(http://www.symphonyorchestraofsrilanka.org/)にて承知して頂きたいが、その初演は1958年9月13日に遡る。私も市内で行われる定期公演には可能な限り出向くことにしている。なんと言っても入場料が安い。チケットは前売りでも当日でも50ルピー、200ルピー、300ルピーである。会場の構造から50ルピー(約60円)でも全く問題ない。とは言いつつ全体的には問題なしとしない。常設の演奏会場として使われている場所は、市内レディス・カレッジの講堂である。普通の学校の学芸会等をやる講堂と考えて頂ければ良い。音響効果は望むべくもない。会場の天井と壁には扇風機がカラカラと回っている。演奏中はさすがに一部の扇風機は止まるが、窓、ドアー等を締めると暑いので、右を開け放す為、外の車のクラクション等の音が会場内に入ってくる。開演後も遅れた来訪者の入場を許しているため、先に来て自分の席以外の席に座ってしまう人たちともめることになる。会場は暑いから服装は自由とは言えTーシャッツは如何なものか? 指揮者や演奏者は黒のスーツや清楚な白のシャッツを着込んでいる。インターバルには飲み物が必要になる。会場外にソフトドリンク店が1軒出るも。行列が出来る。多数の人が後半の演奏時間に間に合わない。よって会場にペットボトル等を持ち込み、グビグビやりながら演奏を聴くことになる。
 こんなところだが、冒頭に紹介の日本人テノール歌手の方、当地コロンボに来てくれるだろうか? キリ・テ・カナワはかつてニュージーランドには自分が歌うに相応しい会場がないので行かないと豪語した。そこでニュージーランドは、これでどうだといったオペラ・ハウスを国内に建設し彼女を迎えたとの話もある。スリランカ人の多くが、このビゼー作曲の”真珠採り”の舞台がセイロンであることを承知していない中、日本人の一流のテノール歌手が、多少ギャラは安くても、啓蒙を兼ねてこのスリランカ・シンフォニー・オーケストラと共演するとの案は如何であろうか。日本人株が上昇すること請け合いである。かつて米国大使館がスポンサーとなり、本国から新進気鋭の若手ピアニストを招へいし、このオーケストラとの共演を果たしたことがある。安い入場料であるので我が国も公的支援なしにこの組み合わせは実現不可能である。それを可能にすることも日本文化外交の器量の見せ所となるのではなかろうか。
         (了)