
『君は満開の桜を見たか』
岡島利夫
学生だった洋介は徴兵猶予の停止を受け、一九四四年三月、陸軍に入隊した。その後、三か月ばかり憲兵訓練所で、戦時国際法を含む陸海軍刑法等、即席の実務教育を慌ただしく受けた。その研修が終わると九段にある憲兵隊司令部に出頭し、陸軍少尉の辞令を受けた。目新しい軍服姿を見て、洋介は改めて天皇陛下の赤子の一人として、国のために殉ずる覚悟をした。それにも拘わらず、一つ卑怯なことをしてしまった。それは出発の前夜、結婚の約束もしないまま、情にまかせ、幼馴染の“千鶴”と交わりをもってしまったことである。翌朝、門扉の外で、洋介は別れの言葉に代えて、千鶴に対し無言で敬礼をした。それに対し千鶴も凛々しく無言で敬礼を返した。
洋介が憲兵将校に任ぜられたのは、大学の専攻が法科で、かつ乗馬クラブに所属していたからだと思われる。外地にあって憲兵隊は司法警察および将兵の軍紀確立、一般市民の治安維持がその任務である。憲兵は元々騎兵から分科した為、乗馬は憲兵の本分であった。軍装は、軽騎兵と同じく帯刀・拳銃携帯・長靴で、軍刀は模擬刀ではなく、きちんと刃が付けられていた。
そもそも学徒あがりの新米少尉が空路で任地に赴くことは異例であった。尉官、下士官を含む兵卒の南方への移送は、本邦の出港地において、目的地別に輸送編成が組まれ、無事に現地にたどりついた兵員が、それぞれ現地の師団に組み込まれるのが常であった。時すでに、バッシー海峡は米潜水艦の支配下にあり、船団を組んで越えることは危険であった。そのため佐官以上の将校は、危険分散のため航空機で各地に赴いた。洋介の乗った百式重爆撃機は、台湾の屏束からサイゴンを経て昭南島(シンガポール)に辿りついた。機内では最後部の席であったが、洋介が黒い肩章のついた憲兵の軍装であったこともあり、佐官・将官といえども、皆、洋介に一目おいていた。
昭南島のセレター空港には、憲兵隊本部差し回しの車が出迎えていた。運転手は「自分は熊本出身の斉藤伍長であります」と短く名乗った。
彼は兵役満期後も除隊せず下士官候補に志願した男で、戦闘経験のない学徒上がりの洋介には頼もしく見えた。洋介は市内中心のオーチャード路にある、旧YMCAに置かれた憲兵隊本部に直行した。それとは別に、板倉中将を司令官とする第七方面軍司令部は、市街をはずれた高台にあるラッフルズ大学に置かれていた。これは中国大陸やマレー半島を転戦してきた血気盛んな戦闘部隊を市内に入れると、南京事件の二の舞になることを危惧したからである。
洋介は旅装を解く間もなく、直ちに同司令部を訪れ、警備司令官川村少将に挨拶をした。その際、同少将は若輩の少尉に対し、
「当地はすでに軍政が浸透しており、特段戦闘はないが、引き続き南方における重要な兵站基地であることから、食料・軍事物資等の割り当てを巡って善からぬ噂もある。ついては相手が上官であろうと、しっかりと渡り合って欲しい。また、当地の補助憲兵のほとんどは国際法も知らない連中ばかりだからよろしく」と頭をさげられた。これには洋介もびっくりした。
当時の昭南島は夜ともなれば、まだまだ、連日、市内の日本料亭からは三味線の音が響き渡っていた。南方にあってはマニラ、サイゴンと並び派遣先としては誰もが羨ましく思う任地の一つであった。
洋介は任務上、多くの住民を尋問した。占領直後には大分手荒いものがあったようだが、洋介は、部下に対し、尋問に際しては、決して暴力を用いることのないよう厳命していた。その様な中、以前から定期的に尋問している一人にエリザベス・タンと言う華人の女性がいた。彼女は、後々まで洋介と係わりをもつ人物である。若くは見えるが三人の娘の母であり、町外れにあるアレキサンドラ病院内キオスクのオーナーである。定期的尋問と言ったが、この女性は犯罪者でもなく情報提供者でもない。それどころか彼女は日本軍占領直後、長期にわたり身柄を拘束され、拷問を受けた経験を持っている。また、同病院は日本軍がシンガポールに突入した際、市内で唯一戦場となった施設で、入院中の患者、医師、看護婦が皆殺しになった場所である。このような恐怖を体験したにも拘わらず、彼女は、洋介に対しては姉が弟を諭すかのような態度で接した。
その他、彼女は英連邦国側の利益代表であるスイス領事館を通じ、救恤品を捕虜へ配布する役割を担っていた。当時は昭南島内の物資不足を反映してか、その救恤品の大部分が途中で抜かれてしまう状況にあった。本日、ミセス・タンが久しぶりに憲兵隊本部を訪れたのは、その横流しを憲兵隊として何とか取り締まれないかとの相談であった。彼女からはシンガポール陥落後の状況も聞くことができた。占領直後、日本軍は昭南島在住の十八歳から五十歳の男子を検問と称して、市内数か所に集め、多くの華人を粛清した。その犠牲者は数千とも数万とも言われるが、その数は定かではない。これが戦後、シンガポール華人虐殺事件として歴史に汚点を残すことになった。
ある日、一人の中国人密偵から、仮にミスターXとしよう、密告があった。しかし、その情報が洋介の下に届いた時、郊外のジュロン地区の現場へは、下士官に率いられた最寄りの実戦部隊がすでに出動済みであった。洋介が数人の部下と共に現場に到着した時、戦闘はすっかり終了していた。森の中に点在するニッパ椰子で作られた田舎家のいくつかが、火花を飛ばしながら炎に包まれていた。村人は口々にゲリラは外部の者であり、村の住民は関係ないと主張していた。しかし、アジトと思われる家からは抗日義勇軍の機関紙である“解放報”の最新版が山積みで見つかった他、大量の武器類と共に日本陸軍の肩章、地図、軍票、ラジオの部品等々が発見された。
その時、“残党の一名が逃げたぞ!”との声が聞こえた。洋介は兵隊が走った方向を追尾し、ある一軒家に踏み込んだ。中には、すでに先行の数名の兵士たちが一群の人の塊に、銃を向け部屋の片隅に押しやっていた。よく見ると一人の中年の大男を前面にして、その背後に肩を震わす十数名の子供たちが居た。また、若い女性を守ろうとして兵隊に抵抗し、銃座で殴られている一人の青年が目に入った。洋介は即座に、
「やめろ!」と怒鳴った。兵隊は平然と、
「女を現地で調達するのは、我々のやり方なんだよ。南支戦線以来こうやって来たんだ。少尉さんよ、あんたにも後でさっきの村で捕まえた若い女をお裾分けしてやるよ」と言い放った。
洋介は咄嗟にその兵隊をこぶしで殴り飛ばした。その兵隊は折角の獲物を上官にかっさらわれる位にしか考えなかったのであろう、悔しそうな目で洋介を睨みながら、
「ちぇっ」と舌をならした。
娘は血を流し倒れている青年に駆け寄り、その頭を自分の膝の上に載せ抱きかかえた。洋介はその娘の仕草を見て“ハッ”と思った。年の頃は十八、九であろうか、年恰好といい、身の丈といい日本に居る“千鶴”の面影を見た。洋介は現地に来てからは“千鶴”のことは思い出すまいと心がけてきたので、このような気持ちになるのは初めてであった。兵隊はそんな男女を引き裂こうと、横たわる青年の手足をつかみ、引きずり出そうとした。洋介は、
「待て! 手を放せ。こいつは重要な証人である。憲兵隊本部に連行し尋問する。憲兵隊預かりとする」と怒鳴った。
歴戦の古参兵は学生上がりの新米将校など屁とも思わぬ風潮があった。
「憲兵さんよ、しっかり尋問しろよ」と吐き捨て外に出て行った。
その部屋は飾り気のない集会場の装いで、片隅には古いオルガンが一台あった。洋介が子供たちの方に向かおうとすると、インド系と思われる大男は洋介の前に立ちはだかった。しかし、決して敵意を露わにした顔つきではなかった。洋介は穏やかな口調で、
「ココは何の施設か、あなたは誰か」と尋ねた。男は、
「ココは教会で、自分はパスターである」と答えた。洋介は、
「教会と言うが十字架があるわけでもなく、キリスト像やマリヤ像の祭壇もないではないか。なぜこのように沢山の子供がいるのか。ここに逃げ込んだあの男とお前の関係はなにか。調べれば解ることだが、この建物の中に武器その他禁制品は隠匿されていないか」等々矢継ぎ早に質問した。男は、
「ここはアドヴェンティスト教会です。偶像崇拝は禁止されており、よって十字架もその他の彫像もありません。この子達ですか、彼らは皆あなた方が作り出した子供たちです。つまり日本軍が進攻してきてから、両親を亡くし、兄弟や身寄りを失くした子供たちです。いまこの教会では十六名の子供を養育しています。このごろは十分な寄付も集まらず食べ物にも事欠く毎日です。あの青年は日本軍が侵攻してきて以来、この村を離れ行方不明になっておりましたが、久々に今日現れたのです。たった一人の身寄りである妹に会いに来たのでしょう。あの二人は兄妹です。妹はこの施設で働き子供たちの面倒を見ています。施設の内部は自由にお調べください。ここにある物は聖書と信仰だけです」と落ち着いた口調で答えた。
洋介は部下に型どおりの捜査をさせた上、その青年だけを連行しようとした。尚も兄にすがりつく妹をパスターは引き留めた。洋介は敵意にみちたその娘の鋭い視線を背に感じつつ、その村を離れた。
その青年を憲兵隊本部に連行したものの、尋問に許される規定の一週間が過ぎても青年は口を割ろうとはしなかった。数々の物的証拠からして重罪はやむを得ないと思ったが、一応、刑を確定する軍律会議の日取りを司令部に打診した。数日後、“即刻処分せよ”との指示が来た。この処分とは“死刑”を意味した。洋介は司令部にいる法務将校に、裁判なしの処刑指示は何かの間違えではないかと詰問した。洋介が執拗に食い下がると、
「それほど言うなら、お前が自分で軍参謀にかけ合え」といわれた。
洋介はその足で司令部に辻川参謀を訪ねた。歴戦の勇士で、その冷酷さはよく知れ渡っていた。辻川参謀は洋介の顔をしげしげと見つめながら、
「貴様が藤川(洋介の姓である)か。最近の憲兵にはめずらしく、なかなか法律に精通しているそうだな。これを眺めてみろ」と一枚の紙を差し示した。
それは昭南島占領下における“軍律布告”であった。“左の行為を為したる者は軍律に照らし死又は重罰に処す”に始まる文書である。“左の行為”とは“日本軍に対する反逆行為”である。洋介は辻川参謀が何を言いたいのか即座に解った。参謀は続けた。
「おい、藤村、ここは戦場ぞ。貴様の尋問の仕方が甘いんじゃないか。体にものを言わせて、きちんと尋問しているのか。貴様は評判悪いぞ、人は貴様を法匪と呼んでいるそうではないか。そうだ貴様の刀はダテに刃がついているわけではなかろう。明日にでも処分しろ。いいか藤村、貴様自身がやるんだぞ。これは軍の命令である」
洋介はこれまで人を撃ったことも斬ったこともない。洋介はその晩、一睡もできなかった。翌朝六時、斉藤伍長を伴いケッペル埠頭からハシケに乗って対岸にあるブラカン・マティ島の浜に上陸した。島の奥から両脇を兵隊に抱えられ、後ろ手に縛られた一人の青年が引き立てられてきた。兵隊の、
「座れ!」の一言とともに洋介の前に跪かされた。
通常、処刑をする際は、まず彼ら自身に穴を掘らせ、その前に座らせ、目隠しをしてから銃殺との手順が取られた。今回はその穴掘りもなく砂浜に座らされた。つまり海に投棄されることを意味した。兵隊の一人が目隠し用の手ぬぐいを目に当てようとすると、青年は首を横に振った。洋介は、
「名は何か、最後に言い残すことはないか」と問うた。
青年は洋介の目をしっかり見据えつつ、はっきりと、
「我は、林光憲なり、最後に一つ頼みがある。あの村に残した妹、名を“春妹”というが、兄は最後まで日本軍と孤軍戦い、見事ごとに討ち果てたと伝えて欲しい。ついてはこのロープを外してくれ。目隠しもいらぬ。囚われの身としてではなく、自由の身として命を絶ちたい」
洋介はこの心意気に感服しつつ。
「ロープを解け」と部下に命じた。
青年は何か短い祈りのような言葉をつぶやいているようだが、よく聞き取れなかった。洋介は額に“ジトッ”と汗が滲み出るのを感じた。震える両足を砂の中にしっかりと踏み込み、足場を固めた。失敗があっては申し訳ないとの気持ちから、その刀身に全体重をかけ一気に振り下ろした。
東の空はその日の午後の雨を予兆するかの如く赤く染まっていた。処刑された現地人の遺体が、家族に返還されることは無いと承知していた洋介は、そっと“光憲”の頭髪の一部を持ち帰った。
青年の最後の言葉と遺髪を早くあの娘に届けようと思いつつも、心が重く、巡邏を含め、ジュロン方面に足を向けることを躊躇していた。ある日の午後、いつもの外回りから戻った洋介に、当直の兵士がニヤニヤしながら一枚のメモを手渡した。
「少尉殿も隅に置けませんな。ジュロンから来た娘がこのメモを置いていきましたよ」
そこには“春妹”と書かれていた。洋介は“ハッ”と思った。光憲の妹である。当時、憲兵隊本部と言えば、誰でも怖れ遠のく場所であった。それにもかかわらず若い娘がたった一人で来たのである。相手が洋介の名前を知っていたのは、あの日、パスターに、
「私は藤村少尉である。この男の身柄は本官が預かる。何かあらば憲兵隊本部に私を訪ねられたい」と身分を明かしたからである。
彼女のこの勇気が、洋介をして、光憲の死を一刻も早く春妹に伝えねばなるまいと決意させた。しかし、自分の手で光憲の命を断ったことを、どのように話せばよいのか悩んだ。ある土曜日の正午近く、ジュロン地区にある件の教会に部下と共に装甲車で赴いた。村に近づくとオルガンの音と賛美歌であろうハーモニーのとれた歌声が聞こえた。土曜日なるも礼拝日なのであろうか、洋介はその祈りを妨げぬよう遠巻きに車を止めた。パスターの祝祷の言葉が済むと、子供たちが明るい声で教会から飛び出してきた。洋介たちの姿を見つけると子供たちの声と足が止まった。後から出てきた大人たちも、こわばった顔つきで洋介たちを凝視した。そのような中、あのパスターが平静さを装いながら近づき、
「今日は何かご用ですか、少尉殿」
「今日はパスターにお話があって参りました」
「それでは、ここではなんですから、こちらへどうぞ」とパスターは洋介を自分の居住棟へと誘導した。
木造平屋の中には古いソファーと僅かな家具があるだけの、質素な部屋であった。
「昼時でもあり、本来ならばお食事でも差し上げなければならないのでしょうが、あいにく十分な食料もなく、おかまいできないことをお許しください。さっそくご来訪の趣きを伺いましょう」と話を促した。
洋介は、先般、春妹が憲兵隊本部を訪れたこと、光憲の最後の言葉を伝えると共に、その遺髪を春妹に返還したい旨を端的に申し出た。パスターは静かに頷きつつも、
「解りました。しかし、今、春妹にはその話を受け止める心の準備ができていないでしょうから、ここは私にお任せください。そして今日は静かにお引き取りください」と毅然とした口調で述べた。
洋介はこのパスターの申出をありがたく思った。出口の外では事の成り行きを一番知りたがっているであろう春妹が、不安と期待に満ちた目で洋介の動きを追った。春妹が、
「兄は・・・」と洋介に走り寄ろうとした。
パスターはすかさず部屋から飛び出し、春妹の前に立ちはだかり、優しく春妹の肩を抱いた。春妹は勘のよい子である、パスターのこの仕草で全てを理解したのであろう、パスターの両腕から滑り抜け、叫びながら両膝を地に落とした。娘の慟哭の中、洋介は掛ける言葉もなく無言でその村を離れた。
その後の出来事であるが、郊外のある村で似たようなゲリラとの小競り合いがあった。洋介の一行はすでに戦闘が終わった静寂のある村の中に入っていった。すると遠くから赤子の鳴き声が聞こえた。棕櫚葺きの小屋の中に一人の赤子を見つけた。洋介は中に入り抱き上げた。男の子である。人の温もりを感じて安心したのか、すぐに泣きやみ、洋介の首筋に強くしがみついてきた。洋介はこの孤児を、あのパスターのところに届けなければと思った。これがその後、洋介をして、時々ジュロンの村に通うきっかけとなった。
村を訪れる時は出来るだけ刺激しないよう斉藤伍長のみを伴った。教会の運営も厳しかろうと、軍の酒保から余り物を供出させたり、自分の食い扶持を減らしながら食料等を提供した。また、洋介はパスターの誠実で博学な人柄に惹かれ、この村を訪れ、パスターと語ることが一つの気分転換になっていた。パスターは率直に日本人、日本軍の批判も行ったが、それは決して挑発的な言葉ではなく、学校の先生が生徒を諭すような口調であった。
「戦争が罪悪であることを、このご時世にあってどれだけの人が理解しているか疑問です。今は世界中で人と人が殺し合っています。我々宗教者も恥ずかしながらそれを止めることはできませんでした。占領後の日本軍は戦火が止んだというのに多数の無辜の市民を殺戮したことを知っていますか。また、シンガポール陥落の二日後、トーマス総督やフレーザー司法長官を含む非戦闘員約二千人が、市内からチャンギ刑務所まで歩かされました。日本軍は大英帝国の崩壊を見せつけようとしたのでしょうが、地元の人々はむしろ敗者となった彼らに同情的でしたよ。将来、万一、日本が反対の立場になった時、石をもって追われることにならないといいですが」と語った。
洋介はこの村を訪れるたびに、村の共同墓地の一角に設けられた光憲の墓を必ず詣でた。手向けるものがなければ街道沿いの野の花を摘み束ねて供えた。春妹はそのような洋介の姿を、当初は遠くから黙って眺めていたが、その距離は日々確実に縮まった。ある日から、墓参時の洋介の背後に春妹の姿が見られるようになった。この距離の縮まりとともに、“少尉さん”と言う呼びかけが、“洋介さん”との呼びかけに変化していった。そのきっかけは、ある日、
「夜になると、村の奥を流れる小川に蛍が飛びます」と春妹が呟いたことに始まる。
洋介は必ず日没前には市内に戻ることにしていたが、その日は夕闇を待って蛍のところへ案内してくれるよう春妹に依頼した。これが初めて二人きりになるきっかけとなった。道々、二人は手を繋ぐわけでもなかったが、お互い胸の高まりを覚えた。ただ、洋介には後ろめたさがあった。そう、日本にいる“千鶴”の存在である。このころになると斉藤伍長も気を利かせ、洋介と春妹が二人きりの時は、離れた装甲車の傍に一人で待機しているのが常であった。その間、伍長はその辺にある木片を用いて、器用に仏像や観音像を小型ナイフで彫り上げていた。それらを戦地に赴く同僚や兵士に御守り代わりに持たせていた。
昭南島が初めて米軍機による爆撃を受けたのは一九四四年十月二日であった。洋介たちは、押収した抗日義勇軍の機関紙や資料を通じ、日本が既に敗退の途にあることを知っていた。勿論、洋介たち憲兵隊はこれら押収物を解析する立場にはなく、司令本部の情報担当参謀に提供するに止まった。
そのような中、これらを単なる抵抗分子のプロパガンダと片付けず精査の上、本邦の大本営参謀本部へと取り次ぐことを怠らない参謀の一人に浜口大佐がいた。“仏の浜口大佐”との評判で、軍の中では温厚をもって知られる士官であった。洋介は一度だけこの浜口大佐に情報を直接手交する機会があった。その時、浜口大佐は、
「うん、ご苦労。こういった情報も軽視してはならんのだよ。大本営参謀本部にもこのような情報を評価する者もいるんだよ」との言葉がなぜか脳裏に残っている。
内外情勢の急変もあり、洋介はジュロンにある孤児養護施設へ頻繁に赴くことはだんだん困難になってきた。しかし、施設への支援は、第三者を通じてほそぼそと継続させていた。そんなある日のこと、斉藤伍長がいつもながら朴訥な口調で短く、
「少尉殿、これ!」と、十五センチ程度であろうか木彫りの像を洋介に手渡した。
「どうした?」と洋介はそれを手にした。
チーク材を磨き上げた光沢のある木像である。胸のふくらみ腰のくぼみが滑らかな、中国服に身を包んだ若い女性像であった。その目鼻立ちは明らかにあの“春妹”の面影があった。
一九四五年八月十五日の午後、シンガポールは晴天、炎天下の巷では日本が無条件降伏をしたとの噂があっという間に広がった。当時シンガポールにはまだ無傷の日本将兵約二十万人がいた。中には血気盛んな連中もおり、徹底抗戦を叫ぶ者もいた。市中では早くもユニオンジャックや青天白日旗を掲げる家もあった。司令部が正式に“聖旨を奉戴して矛を収める”との司令官訓辞を出したのは三日後の十八日である。洋介は司令部警護要員として市内に残った。
シンガポールには約六千人の一般邦人が居た。彼らは兵隊や行政当局を一切当てにせず自発的に市内を離れ、未開の湿地帯に集結し、自前のバラックを完成させ、全員を収容した。
英国軍の上陸を一番待ち望んでいたのは、チャンギ刑務所に収容されていた英連邦軍将兵たちである。刑務所での彼らの日常生活は、日本軍の捕虜軽視の伝統に加え、過密状態による衛生の劣悪、食料や医薬品の不足の中で多くの捕虜が死んだ。ジャングルに潜伏していた抗日共産軍や義勇軍は市内各所に湧き出るように出現し、対日協力者の摘発や人民裁判を開始し始めた。洋介たちの密偵として働いていた、例の中国人ミスターXは真っ先にリンチの対象となったようだ。
シンガポールで日本軍が降伏文書に署名したのは終戦から約一ヶ月後の九月十二日であった。その日は天まで抜ける青空であった。板倉大将は南方軍総司令官代理として、ラッフルズ大学に置かれていた司令部から敗軍の将兵たちと共に、英軍車の先導のもと車列で市内に向かった。洋介もその末尾に連なっていた。一行はハイストリートの角で車を降ろされ、一列になってシティ・ホールまで歩かされた。沿道の両側は数千の市民が埋めていた。彼らから、
「バカ野郎!」
「オイコラッ!」
「駆け足!」との罵声が飛んだ。
洋介は原因不明の病気とマラリヤのため衰弱していたが、気力を振り絞り行進した。洋介はパスターの言葉を思い出した。
「日本が万一反対の立場になったとき、石をもって追われることにならなければ・・・・」
その後、英国側は戦争犯罪裁判の準備を急ピッチで進めた。その対象はシンガポール陥落前後に起きたアレキサンドラ病院襲撃事件、占領直後の華僑虐殺事件、チャンギ刑務所での捕虜の処遇、泰緬鉄道建設での捕虜虐待であった。洋介にとってはいずれも直接には関わりのない事案であった。洋介は刑務所内の病院棟に収容された。洋介はすでに少尉から中尉へと昇進しており、ジュネーブ条約に基づき労働を課せられることはなかった。
他方、ジュロン・キャンプでは約六千人の在留邦人が自営しつつ帰還を待っていた。その第一次引き揚げ船が一九四五年十一月中に配船されることになった。日本軍側は英国軍と交渉の上、その第一便では軍人、軍属を優先すべく三千人のリストを作成すると共に、残りの五百人を一般邦人に割り当てるとの計画書を作成した。これを知り憤慨したのは一般邦人である。これら邦人の多くは日本の開戦時と敗戦時の二度に渡り抑留され経験を持っており、お上が一般邦人を弄ぶのもいい加減にしてくれとの気運が高まっていた。結局、第一便には邦人計三千五百人が乗船することになった。軍側は連絡将校数名と傷病兵六十名のみが乗船することになった。出帆日は十一月二十一日と決まり、その乗船名簿を中三日で作成するようにとの指示がきていた。チャンギ刑務所にあっては浜口大佐がその人選に当たった。勿論、洋介はだれが選ばれるのか知る由もなかったが、その浜口大佐が病室棟に居る洋介のもとにひょっこり現れ、
「藤村、お前、明日帰れ」と唐突に言い出した。洋介は、
「何で自分が」と尋ねた。
「何でもいい、明日の引き揚げ船で帰国しろ、もう乗船者名簿に登録済みだ。これは命令だ」
「しかし、自分より優先すべき人々が沢山いらっしゃるでしょう」
「お前も変わった奴だ、俺が俺がと帰りたがる輩が多い中、有り難く思え」
「大佐殿、我々軍人は当地で一般邦人の方々に一時でも笑顔を提供できでしょうか。思えば自分は当地に配属になってから一度も笑ったことがありません」「それじゃ、三年片頬以上だな」
「大佐殿、それはなんでありますか」
「昔の武士は三年に一度、片頬が少し揺れるくらいにしか笑うことはないとの例えだよ」
「それに自分は戦犯として大手を振って帰国できる身ではなく、明日も知れぬ命です。日本の家族には単に戦死したと伝えてください。大佐殿、やはり一般邦人の笑顔が先ですよ」 浜口大佐は洋介の覚悟をすぐに察した。
シンガポールを離れたその引き揚げ船がサイゴン港に寄港した時、未掃海機雷に接触し沈没、船員・乗員とも全員が死亡した事件は戦後の大きな惨事の一つとなった。この乗船名簿に“藤村洋介“の名前があった。いや、ただ名簿からその名を落とす時間がなかっただけである。
シンガポールにおける初の戦犯裁判は一九四六年一月二十六日、市内の地方裁判所で開廷した。その数は千人を越えた。警備司令官、警察隊長、憲兵隊長等の警備部門の責任ある者たちは真っ先に死刑を宣告され処刑された。
洋介にもその日がやって来た。あのジュロンのゲリラ掃討戦で指揮をしていたのは藤村少尉であり、その際連行した中国人一名を斬首したのも藤村であることが戦犯調査局に報告されていた。また、ブラカン・マティ島での斬首の件については、そこに立ち会った下士官が暴露したようだ。その一人に斉藤伍長が含まれていたことを洋介は知らなかった。
洋介としては同じ学徒仲間が“わだつみ”として彼の地に逝ったに比べ、人道を外した者として罰せられることは屈辱であった。また、理由はともかく現地女性と情交を持ったことは“千鶴”に対する裏切りである。洋介はこのまま人知れず葬られることを強く望んだ。
法廷内の傍聴席を見るとあのパスターの姿があった。腕には小さな赤子が抱きかかえられていた。女の子と見受けられた。しかし、“春妹”の姿は見えなかった。パスターはその子を隣の席にいる人に手渡し、証人席へと進んだ。弁護士側の証人である。
パスターは宣誓後、“洋介自身はあの日の掃討作戦に直接携わっていないこと、連行した容疑者一名を斬首したことは事実であるが、容疑者自身は捕縛の状態ではなく、自由意志のもと、納得して処刑されたこと、また、洋介は何よりその事件以来、教会が運営する孤児養護施設に対し、個人の資金、資材を投げ打って食料支援や物品を提供する等の支援を続けてくれてきたこと”等々を切々と訴えた。
証言を終えたパスターは傍聴席に戻ると、赤子を抱き上げクルッとその顔を洋介の方に向けた。洋介は一瞬、春妹の面影がと見間違えた。
次に検察側が用意した証人はあのミセス・タンであった。検察側は自信にあふれた口調でミセス・タンに問うた。
「貴女を拘束し拷問した人物がこの中にいますか? そしてその者の名前は何ですか?」 彼女は、
「私が憲兵隊により逮捕され、拷問を受けたことは事実ですが、虐待をしたのは人ではなく、戦争の邪悪のなせる業です。ここにいる藤村中尉とは知己がありますが、私を逮捕、拷問したのは彼ではありません。当時、藤村さんはまだシンガポールに着任していませんでした。藤村さんは無罪です」と明言した。
検察側が当時、“悲劇のヒロイン”として知れ渡っていたミセス・タンに包括的に日本兵への報復の役割を期待したのだとすれば、ミセス・タンを検察側の証人として採用したことはミス・キャストであった。検察側は慌てて彼女を退廷させた。
その後、シンガポールでの軍事裁判は丸二年に及び、死刑判決が百四十一名、執行された者は百二十九人であった。しかし、洋介への判決は出ないまま、とうとう最後の復員船が仕立てられた。その陣頭指揮を執ったのは浜口大佐であった。帰還船の中でも大佐は、
「藤村、俺はきっとお前を日本に連れて帰える。最後の一兵まで日本へ帰還させるのが俺の最後の勤めである。藤村、もう少しだ、頑張れ」と励ましてくれた。
その船が快晴の呉港に入港したのは一九四八年の春であった。港を一望できる高台には旧呉海軍病院があり、洋介はタンカの上にあった。病院正面下の石段の両側はしだれ桜が満開であった。無風、しだれた桜の枝は微々として揺れることは無かった。洋介はその桜を見たのか、見なかったのか、洋介の鼻孔に息の気配はなかった。しかし、その口元には確かな笑みがあった。
その洋介の穏やかな顔を見つめながら、浜口大佐は“ああ連れて帰れて良かった”と思った。洋介にとっては四年ぶりの無言の帰国であった。 (完)