高齢者の役割その2(あの戦争を語り継がないでよいのか)

岡島利夫

1.全国から1600通の証言
2015年は戦後70年となった。今の若い世代には日本とアメリカが戦争したことすら知らない連中がいると聞く。とある出版社は、戦争体験者の高齢化につれ、戦争の記憶が風化していくことを危惧し、戦争にまつわる証言を記録し、未来への「道しるべ」として残すべく、広く全国からの証言を求めたところ、約1600通の投稿があった。同社はそれらを証言集として出版した。ご自身鮮烈な戦争体験を持つ作家の五木寛之氏は、少し冷めた目で「人の体験談は、他人に知識として多少は残るだろうが、伝えきれるものではない。伝わっているなら、こんなに繰り返し戦争は起きていないと思う」と発言。

2.気になった証言の一つ
私が気になった証言者の一人に、愛媛県松山市に在住の「河野さん」(苗字のみ記載)という方がおられた。私はご存命ならその方とお会いしてみたいと思い、当該出版社にメールで「河野さん」の連絡先を紹介したところ、個人情報であるとして、教えてもらえなかった。その後、松山市の電話帳で「河野姓」を調べたところ、確か10数件載っていたと思う。不審者扱いされながら片っ端から電話をし、やっとご親族の方と接触できたのは、2017年の末であった。しかし、ご本人は出版社からのインタビューを受けた直後に他界されたとのことであった。気になった記述とは、河野さんが「戦中の約3年間をニュージーランドの日本兵捕虜収容所で過ごした」との証言である。

3.フェザーストン日本兵捕虜収容所
戦時中オーストラリアのカウラというところに設けられた日本兵捕虜収容所では、集団脱走事件があり、多くの犠牲者を出したことは、映画化されており、広く知られているが、ニュージーランドにも同様の捕虜収容所があったことは、あまり知られていない。フェザーストンとは首都ウェリントン近郊の小さな町である。戦時中その小さな町で何が起こったのか。簡単に記しておく。
①フェザーストン日本人捕虜収容所で虐殺事件が発生したのは、1943年2月25日のこと。同収容所は、1942年8月前後のソロモン諸島ガダルカナル島周辺での戦いで、米軍が捕虜とした日本兵を収容するため、米国政府からの要請に基づき、ニ―ジーランド政府が急ごしらえで開設した収容所である。
②フェザーストンという町は、首都ウェリントンの北東約70キロに所在しており、元々そこは1914~18年の間の第一次世界大戦の際、欧州の戦線に送られたニュージーランド部隊の、北島での訓練基地として使われていた場所である。
③1942年11~12月ころは、ぞくぞくと収容者数が増えていた時期であり、最終的には概ね840名の捕虜たちが収容されていた。その収容所には主としてガダルカナル島での戦いの際に捕虜となった陸軍関係者と、ソロモン諸島付近での海戦で沈没させられた日本海軍の兵士たちが収容されていた。
④虐殺事件は1943年2月25日の朝に発生した。日本兵たちは捕虜になっていることを恥として、全員偽名を名乗って、暴動の機を狙って日々過ごしていた。事件の発端は、その前日の2月24日、収容所側から突然、翌日の収容所外での作業隊として105名を供出するようにとの命令が出されたことによる。日本兵たちは、敵国のために働くことは「利敵行為」であるとして、作業をボイコットすることを決め込んで、当日の朝、収容所内の広場で座り込みを行った。
⑤収容所側はこの行為は不服従の敵対行為であるとして、強い対抗措置に出た。所長との直談判を要求して、一人の士官が立ち上がった。収容所側はその要求を拒否し、逆に通常の3倍にあたる約50名の武装した警備兵たちが、座り込んでいる日本兵たちを取り囲み、威圧し対峙した。双方の主張はかみ合わぬまま時間だけが過ぎた。収容所側の現場指揮官の一人は、この堂々巡りにしびれを切らし、日本側士官の一人に銃を向け、警告のつもりで一発発砲した。
⑥この発砲を発端として、武器を持たぬ日本兵捕虜たちは総立ちとなり素手で、一斉に警備兵たちに立ち向かった。これに怯えた警備兵たちは、一斉射撃で応戦した。敵側には機関銃もあり、1分も立たぬうちに鎮圧された。結果的に日本側捕虜に122人の死傷者がでた。収容所側の公式日誌には、当該日に“日本人捕虜たちによる集団暴動事件があった”としか記されていない。

4.明日に伝え、残したいことは無いのか
今後のさらなる調査を踏まえ、フェザーストン日本兵捕虜収容所での虐殺事件はなぜ起こったのかを解明しつつ、当時の日本人(日本兵、日本男子)の姿を明らかにする中で、戦前、日本人が持っていた価値観のすべてを否定してしまって良いのか、将来の日本に語り継いでいくべきことは何もないのかを探ってみたい。
①彼らは収容所の中で、なぜ、死に急ぐような暴動を起こしたのか?
②「生きて虜囚の辱をうけず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」との「戦陣訓」はどれほど彼らを束縛していたのか?
③彼らはどのような収容所生活をしていたのか?
④収容所内において、どのようにして「死への呪縛」から解放されていったのか?
⑤生き恥をさらしながら帰国した彼らを、戦後の日本人はどう迎えたのか?
⑥暴動の際に死亡した兵たちの遺骨はどこに?
⑦戦前・戦中をよく知る彼らは、戦後、日々繁栄する日本をどのように見たか?
以上