たった一個のボールだけど

岡島利夫
第一章 十一秒の青春
 二千二年六月十八日、雨降りしきる宮城スタジアム、準々決勝への進出をかけ死闘を繰り広げる日本とトルコの試合に熱いまなざしで見つめる一人のセネガル人がいた。彼はセネガル・フットボール連盟事務局長であると共に、FIFAのアフリカ選出理事の一人である。名前をアブドゥ・ンディアエという。
 ンディアエにとって、この試合で日本が勝つことに特別のこだわり、いや、重大な意味があった。セネガルは前々日の十六日、大分ビック・アイ・スタジアムでのスウェーデン戦に勝ち、準々決勝への進出を決めていた。ンディアエは、その翌日、まだその勝利の興奮冷めやらぬ中、仙台へ飛んだ。この日本・トルコ戦の勝者と準々決勝を闘うことになっていたからである。ここで日本が勝ち、二十二日に大阪で行われる準々決勝において、是非とも日本と闘うことが、大げさに言えば、それが、彼の生涯の総決算になるとさえ考えていた。
 今年五十八歳になるンディアエにとり、このような巡り合わせは、これからも彼の生涯において起こらないであろうことは容易に想像できた。この時点での両チームの世界ランキングはセネガルが三十一位、日本が二十六位であった。その両者がワールド・カップの準々決勝、ましてや準決勝で闘えることは奇跡に近かった。それもこの日本においてである。この日本代表チームとは昨年の十月四日に対戦したことがある。その時、日本チームはW杯強化策の一環としてヨーロッパに遠征してきており、各地を転戦し国際親善試合を消化していた。その日、セネガル代表はフランスを中心としたヨーロッパ各地からフェリ・ボラール・スタジアムに呼び寄せられた。この日本との親善試合は二対ゼロでセネガルが完勝した。ンディアエは、その結果は承知しているが、その試合を見ていない。韓国との共催とは言え、アジアで始めてのワールド・カップ開催。ンディアエは、今、この日本で小雨降るスタジアムに身を置いている。そして今回セネガルは初めてこのW杯に出場を果たしている。それもあれよ、あれよと言う間に準々決勝まで勝ち進んで来てしまった。
 スタジアムの観衆の熱気とは裏腹に、肌寒くもあり、小雨の中、ンディアエはいつの間にか、三十八年前のあの日の自分にタイムスリップしていた。
 千九百六十四年十月十五日、午後一時、代々木にある東京オリンピック・スタジアムは気温摂氏十七度、小雨。「ウー、寒い」 身長一メートル九十、ぜい肉はなく、そのすらっと伸びた手足、黒くつやつやと輝いた小さく端正な顔、白目が際立ち、ちじれた短い髪はふんわりと綿帽子のように小さな頭を覆っていた。その姿は若い牡鹿のごとく凛々しかった。とはいうもののンディアエの体は緊張が重なり鳥肌が立っていた。メイン・スタジアムにぎっしりと詰まっている観客全員の目が、自分一身に注がれているように感じ、気持ちが異常に高ぶった。
 男子百メートル第一次予選を直前に、ンディアエは、五日前の十月十日、晴天下の開会式を赤・黄・緑の新しいセネガルの国旗を掲げ、胸を張って行進した時の心の高まりとは違った興奮を覚え、落ち着かなかった。
 その開会式の時は、アフリカの星、エンクルマ・ガーナ大統領の「我々は、もはや奴隷ではない。もっと胸を張って歩こう。」との言葉を想起しつつ、緊張感だけが自分の足を一歩一歩、前に進めているに過ぎなかった。自分は西アフリカの新興独立国・セネガルを代表して、この非白人国・日本を訪れ、アジアで初めて開催されたオリンピックに参加している。国を離れたのが七月、三ヶ月間、パリ大学の運動場で、同じく旧仏領アフリカ諸国から集まった若者たちとの合同強化合宿に参加した。十月五日、フランス政府が提供してくれたエール・フランスのロッキードL1049型機は、フランスおよび仏語圏アフリカ諸国の代表をぎっしりと詰め込み、パリ北東部のブルジェ空港を発った。中近東、インド、シンガポール、香港経由、合計飛行時間三十三時間三十分かってやっと極東の未知の国・日本へたどり着いた。アフリカ大陸の最西端の国から、アジアの最東端の国へと、地の果てまでやって来てしまった。その時ンディアエは日本のことは殆ど知らなかった。「極東に日本という国があってな、その国の海軍はめっぽう強く、このダカールに立ち寄り、港を真っ黒に埋め尽くした威風堂々たるロシア皇帝閣下のバルチック大艦隊のすべてを海の底に沈めてしまったそうだ」と、爺さんが誇らしく語る国・日本と、安物の雑貨やおもちゃを世界にバラ蒔く国・日本とが頭の中でなかなか繋がらなかった。
 十五日、午前中の男子百メートル予選で、すでに米国のヘイズが十秒五を出しているので、もう自分には上位進出の希望はない。
「順位にこだわらず俺の目標は、自己ベストを更新することだ。」と、ンディアエは自分に言い聞かせた。
これは決して諦めの気持ちではない。自分たちはまだまだ技術的にスポーツ界では赤ん坊なんだ。今持つ自分の力を出し尽くして、新しく誕生した自分たちの国・セネガルの存在を世界の人々に知ってもらえればそれでよい。フランス政府から支給されたランヴァン・デザインのこのスポーツ・ウェアーも、確かに自分たちには取って付けたようで不似合いかも知れない。炎天下、素足でセネガルの焼けた白い砂浜を走っていた時の自分を取り戻せばよい。そんな思いを頭の中で交互に浮かべながら、膝が胸に接する位、高く上げ下げしつつ呼吸を整えた。男子百メートル第一次予選、E組のスタートが迫った。そして、少しずつ落ち着いてきた心の平衡も、スピーカーから呼ばれる自分の名を耳にした時、心乱れ頭の中が真っ白になってしまった。それでもスタート・ライン向かう足取りは意識的に軽やかにはずんでいるように見せたつもりだった。
「第一のコース、ムドカ君、ヴェネズエラ。第二のコース、オドカ君、ウガンダ。第三のコース、コサノフ君、ソビエト連邦、第四のコース、ビクマル君、フランス。第五のコース、ンディアエ君、セネガル。第六のコース・・・」 次々と呼ばれる選手の名前と国名が観衆の声援にかき消される中、ンディアエは緊張の極みに達していた。隣のコースがたまたま顔馴染みのフランスの選手だったので、自分自身の緊張を半ば誤魔化すかのように、強張った口元をやっと開き、小声で、
「ボンヌ・シャンス(頑張ってな!)」と声をかけたが、彼は無表情であった。
「位置に着いて!」
「用意!」
「パーン!」
というピストルの音がンディアエの体をスタート・ラインから弾き出した。 今、ンディアエは、自分の人生において最も長いと思われる秒針の合間にその身を置いていた。その長い一秒一秒の間に間には、観衆の姿も国の名誉も、興奮すらもなかった。高く上げる太ももの重みを多少感じながらも、ンディアエの肉体と精神は、ただ前へ前へと移動しているに過ぎなかった。ゴール・ラインを自分なりに力強く踏み越した。順位は確かではなかったが、五、六位くらいであろうと思われた。もはや、規制されたトラックの白線の枠に拘ることなく、スピードを落としながら歩調と呼吸を整えつつトラックを流した。観衆の声をやっと耳が捉え始めた。全力を尽くした達成感が全身に込み上げてきた。見上げたボードに結果が発表された。十一秒ちょうど。第六位であった。一位になったカナダの選手には特に大きな拍手が降り注がれているように見えた。 ンディアエに敗北感はなかった。それよりも、自己ベストが得られたこと、また、こうして遠いアジアの国・日本に、オリンピック・スタジアムに立っていること自体を誇らしく感じた。
 先の大戦の戦禍から立ち直ったばかりのアジアの小国・日本が、今、こうして世界の注目を浴びている。自分たちは遙かアフリカ大陸西端の新興独立国から初めてオリンピックに参加している。故国にはまだ十分なスポーツ施設がない。自国人のコーチもいない。スポーツ分野も他の教育と同様にフランス人教師に頼らざるを得ない。
 スタジアムを埋め尽くす明るい観衆の顔々が、将来の自分の国の人々の顔とオーバーラップして輝いて見えた。百メートルという限られた一直線に賭けた青春、”十一秒の青春”、爽やかな青春の燃焼であった。
 同日、四百メートル障害の予選に出た同僚のサールも六位に終わり、二人とも二次予選へ進むことはできなかった。選手村の部屋にはンディアエの方が一足先に戻ってきた。帰国の準備のための荷造りをしていると、サールがひょっこり入ってきた。彼は依然として汗ばんだ額を拭いながら、
「終わったな」と、ひとことポツンと言った。
「ああ」と、ンディアエも相槌をうった。
 二次予選や、決勝戦に進めなかった自分たちは、予算上の制約もあったのであろう、観光客よろしく閉会式までこの素晴らしい祭典の中に身をとどめることは許されなかった。
 千九百六十四年十月、このアジアで始めた開催されたオリンピックの期間中、ソ連は三人乗り宇宙衛星船ウォスフォート号を打ち上げオリンピックで競い合う世界の若者に対し、宇宙から世界平和のメッセージを送信してきた。十月十四日には、アメリカの黒人指導者キング牧師へのノーベル平和賞の授与が決定された。ンディアエは、この千九百六十四年が自分自身の出発点であるのみならず、世界平和と黒人の解放への大きな前進の年であることをこの日本の滞在中に実感した。 
第二章 ヤシの木をゴールに
 ンディアエがセネガル・日本戦の実現に並々ならぬ関心を抱く理由は、自身の東京オリンピックへの参加がその背景にあることはその通りであるが、その他にもっと大きな理由があった。それはンディアエが三十八歳の時、今から二十年前のことであった。東京オリンピックに参加したころは、まだ体育学校の学生であったが、ンディアエは同校を卒業すると青年スポーツ庁に就職した。
三十八歳の時はすでにスポーツ課長に就任していた。独立後もセネガルの国造りには旧宗主国フランスの指導と財政支援を仰がねばやっていけない状況が続いていた。実際、青年スポーツ庁においても、その運営は他の省庁と同様にフランスから派遣された顧問集団によって牛耳られていた。スポーツ専門家も殆どがフランス人であった。独立前からフランス国旗に忠誠を尽くす教育を受けてきたンディアエにとって、それはさほど違和感あるものではなかった。
 しかし、東京から帰ってからのンディアエは、ことある毎に将来の自国におけるスポーツのあるべき姿、スポーツ振興政策につき考え続けてきた。そのモデルとして日本のシステムが導入できないか、そして今は青年スポーツ庁の役人として、実務に携わっている。保守的な大人たちのスポーツに対する意識を改造することは困難であることは十分承知していたものの、せめて若者たちの中には、何とかしてスポーツの芽を育てていきたいと考えていた。
 まず、やるべきことは二つあった。その一つは、学校教育の中にスポーツを教科として取り入れること。もう一つは、地域社会の中でスポーツを通じ青年層の組織化を図ることであった。オリンピックの代表であったンディアエは、村へ帰れば英雄であり、自然と地域社会のリーダーに祭り上げられていた。ンディアエは、地域青年団を動員にして、何とかスポーツ大会を実現しようと考えた。セネガルにおいてスポーツと言えばサッカーである。
 ンディアエの家は週末ともなれば地域青年のたまり場と化している。そんなある夜、ンディアエは近隣の村々の青年会のリーダーたちに招集をかけた。何時に参集という通報もしなかったが、青年たちは、各自夕食後、それぞれの村から三々五々暗がりの中をンディアエの家に集まり始めた。その夜は八っの村からそれぞれ二、三人の代表がやってきた。
狭い地域とは言え、村にはそれぞれの特色があった。海岸に面し漁業を営んでいる村。落花生栽培のみを生業としている村は全体的にのんびりしていており、昼間からお茶ばかり飲み明かしている。ヤシの木や竜舌蘭の葉を乾燥させ、それを利用して家具やカゴを編む名人がいる村。キリスト教の教会がある村等々、いろいろな村がある。それぞれの村民の気質も何となく個性がある。
 ンディアエの村は、セネガル共通の産業である落花生栽培の他には、美味しいヤシ酒が採れる村として評判であった。ヤシ酒は前日の夕方に仕掛けて採取したものを、翌朝、集め、その日の晩ころに飲むのが一番美味い。ワインで言えばヌヴォー(新酒)といったところである。もっとも人によっては、二日目くらいになり、すこしすっぱい味が出てくる位のものが好きな連中もいる。ンディアエの村の若者たちは、ンディアエを助け、その晩の集会の為に、朝早く起きてヤシ酒の採取を手伝ってくれていた。一晩中、語り明かし、飲み明かすのに十分の量を用意してくれた。
 その夜、鍋の中の熱い砂で煎った、煎りたての落花生をつまみにしながら話は進んだ。冬の間どうして若者たちが村からいなくなってしまうのかは、誰もがみんな知っている。
セネガルでは、六月から十月の雨季の間だけが畑作(といっても落花生のみの単作農業)が行われ、唯一男手のいる季節である。逆に言えば、その他の季節は男いらず、つまりセネガルにおいて男たちは、“ピーナッツ、ピーナッツで半年暮らし、後の半年は寝て暮らす”という、優雅な“バラと酒の日々”ならず“ビーナッツをヤシ酒の日々”なのである。長い冬の乾燥期が過ぎ、六月に入り、初めの雨が降ると男たちは一斉に大地を耕す。耕すと言うものの、長い棒の先に木製の矢じりをつけたような棒で大地にタテ筋の溝を何本か付ける程度である。そして二回目の雨が降った時に、今度はその溝に種を蒔く、後は雑草取りをするわけもなく、ただひたすら神の恵みである天からの雨の恵みを待つという単純な農作業なのである。これを称して“インシャーラ(神のおぼしめし)農業”という。そして十月の収穫が終われば、働き者の男は町に仕事を求めて出ていく。子供たちも男のであればダカールのような大都会に出てきて、靴磨きや、市場にたむろして買い物客の荷物持ちや車の見張り番などをして小銭を稼いでいる。そんなわずかな金でも郷里の家族にとっては頼りになる現金収入となるのである。
 ジョンソン・トラオレという映画監督が「寺子屋の子供たち」と言う映画を作ったことがある。村にいる子供たちは回教寺院にあるコーラン学校でアラビア語の読み書きを覚える。覚えるというより、諳んじる。先生である回教導師の読む音を耳でとらえ、口パクをしているだけの子もいる。だから一旦教室、とはいっても大きな木の下にできる木陰を離れるとすっかり忘れてしまう。導師は農閑期に、このような子供たちをまとめてダカールのような都会の知人のもとに送り出す。子供たちは、その知人である仕切り屋のボスの家で靴磨きの道具一式を貸与され、日中は町に出ていき、靴磨きをし、夕方になるとそのボスの家に戻ってくる。一日の稼ぎのすべてを浄財として供出させられる。稼ぎが少ないとぶたれたりする。それでも子供たちはこれが自分たちにできるお勤めだと信じ、我慢する。小さい子供の中には夜になると村に帰りたいといって泣く子供もいる。年長の子供がそんな子供を抱いて一緒に寝てあげる。村で母親たちは、子供たちは都会で勉強したり、宗教的修行をしていると教えられている。子供たちは相変わらず小銭稼ぎのため町中で日々奔走している。そんなある日、一人の子供が交通事故に遭い死亡する。仲間一人が村に戻り、まず導師にこの事実が伝えられる。そして導師は、その子の両親のもとを訪れ、「子供は、アラーの教えを忠実に務め、神に召された」と伝える。しかし、母親は承服できず泣きじゃくる。自ら都会に出向き、我が子がどのような生活をしていたのかを自らの目で確かめる。修行など嘘っぱちで、子供は毎日の働きで疲れ切っている。夜は粗末な部屋に押し込まれ雑魚寝状態でうずくまって寝ている。食べ物も十分に与えられていない。そして村の導師が子供たちが稼いだ小銭を私的に着服している事実を暴き、その他の母親と力を合わせて、その導師を村から追放するとのストーリーである。
このような話は、ンディアエの村にとっても他人ごとではなかった。つまり、夏の雨季の間しか農作業が出来ず、あとの季節には、田舎では人手がいらない。同じような現象がある。やはり落花生以外にめぼしい産業が無い地方には若者たちを留めておく魅力も活動の場もない。それに、地方では高等教育を受ける学校がない。せいぜい中学校止まりである。あとは地方の拠点都市へ出るか、首都ダカールに出て行かざるを得ない。
 やや酸味のあるヤシ酒は、若者たちの舌を一層滑らかにした。しかし、話の内容はどうしても政治談義へと走ってしまう。ンディアエとしては、話の中心を早くスポーツ大会開催の話へと誘導したかったが、若者たちの熱意に押され、ずるずると本題に入る機を逸してしまうありさまであった。しかし、この夏の間に、若者たちが再び村を離れて行ってしまう前に、地域青年団を組織してスポーツ大会を実現する必要があった。セネガルでスポーツと言えばサッカーだ。ンディアエも小さい時から、蹴れるものなら丁度ラクビー・ボールのような形をしてバオバオの実でも、ヤシの実でもボール代わりに蹴飛ばして遊んだものだった。
 ンディアエは母校の体育学校と掛け合って使い古しの革のサッカーボール一個を村に持ち帰っていた。ンディアエはそのボールを手にやっと皆の前で自分の決心を打ち明けた。「今夜、ここに集まった八っの村で対抗サッカー大会をやろうと思うのだがどうだろう」と提案した。
「異議なし!」 即決である。
 全会一致。遠回りする必要はまったくなかった。この八ヶ村対抗試合が、州大会、そして全国大会へと発展することが決まっているかのごとき勢いであった。実際、ンディアエとしては、この小さなスタートがいずれは全国規模に発展し、若者たちの励みとなり、郷土意識や、競争意識が醸成されていくことを期待していた。
 さて、これから毎日曜日の早朝に村対抗のトーナメントを海岸の砂浜を利用してやることになった。それも直ぐ次の日曜日から始めることになった。その当日は大変だった。年配の人は来なかったが、子供や若者たちが、それぞれてんでの服装でワイワイ、ガヤガヤ競技場に指定された砂浜に集まってきた。短パンの者、長ズボンの者、Tシャッツの者、開襟シャッツの者、靴を履いた者、素足の者、草履を履いた者などなど、祭り用のタムタム(太鼓)を“テケ、テケ”鳴らしながらやって来る者。サッカーは偉大なり。ンディアエはセネガルの人々のサッカーへの熱意に感心するとともに、この手応えに満足であった。
 さて、次は組み合わせが一苦労であった。各チームから一人ずつの代表を選び、ボールを遠くへ蹴飛ばした順に二組ずつの組み合わせを決めることにした。この時、ンディアエの村を代表してボールを蹴った少年ラミン・ディオップが、後にアフリカのサッカー界で二年連続MVPに輝き、二千二年W杯でセネガルを準々決勝まで導いた男となろうとはンディアエはもちろん、ディオップ自身も想像だにしていなかった。
さあ開始だ。砂地なので高く上がったボールは弾性が吸収され、落ちた地点に結構ピッタと止まる。各村を代表して一人一人がボールを蹴り上げた。その度に、「ワァー」という歓声と例の“テケ、テケ”というタムタムの音が海岸に鳴り響いた。
 さて、チームの組み合わせは決まったもののチームごとのメンバーを決めるのが、また大変であった。参加すれば何か貰えるとでも勘違いしてか、ひたすら出たがって泣きじゃくる子供たちもいる。とにかく出たがり屋が多くて、殆どのチームで困ってしまうほどである。海風にそよぐヤシの葉音や、さざ波の音を耳にしながら、白い浜辺で早朝行うサッカーの試合は、若者たちに心地よい汗と情熱を醸し出した。砂浜に棒きれで線を引き、両脇のヤシの木二本の合間をゴールに見立てただけのサッカー場であったが、ゲームの進行上何らの不都合はなかった。ただ、小さな問題が幾つか残った。例えば、ユニフォームがなかったので咄嗟に敵・味方の判断が出来ず、相手側やレフリーにパスしてしまうことも度々あった。それも、
「おいおい、どこにパスしているんだ! バカだな」と、言うくらいの言葉は飛び交っても、皆で笑い転げるうちにゲームはドンドン進行した。
 ンディアエには、言い出しっぺとして解決しなければならない問題があった。優勝チームへの何らかの賞品を工面しなければならないことだ。賞品として喜ばれるものは、電気のない村でも使える携帯用トランジスター・ラジオが良い。東京からのお土産であれほど喜ばれた物はなかった。ただ、問題はそれをどこから調達するかであった。
 この日の試合はとにかく興奮の内に終了した。海の浅瀬にはヤシの木とその葉でふかれた高床式の穀物庫が整然と並んでいる。それらが夕陽に赤く映え、昼間の喧噪の残像が残る浜辺をンディアエは一人歩きながら、まだ賞品のことを考え続けていた。
第三章 与える者と与えられる者
 ンディアエは取り敢えず、ダカールに出てフランス大使館の文化アタッシェであるペリシエ書記官を訪ねることにした。
 市の中央に位置するサンダカ市場の近くにあるフランス大使館を訪れるのは久しぶりであった。大使館玄関前の庭の中央にたなびく三色旗が未だにンディアエに忠誠心に近い感じを持たせることが何となく不思議であった。仏語でフランス式教育を受けてきたンディアエにとってフランスは無意識のうちに憧れの国になっていたのかも知れない。
「やあ、久しぶり、元気かい」
 突然の訪問にもかかわらずペリシエ書記官は、満面の笑みを浮かべ来訪を歓迎してくれた。レセプションに用意されている来客用ソファーではなく、彼の事務所に招き入れてくれた。ペリシエ書記官は、ンディアエの話を一通り聞き終わると、
「非常に官僚的な言い方になってしまうのだが・・」と、やや言いにくそうに、ちょっと間を置きつつ、
「君だから率直に話すのだが、私のところのみならず、大使館には毎日いろいろな陳情が持ち込まれるんだけど、それらの殆どは、冒頭大儀名分をひけらかしつつも、つまるところ金か物の無心なんだ」
 ンディアエはただ頷くだけだった。そしてペリシエ書記官はンディアエの目を直視するのをやや避けながら続けた。
「君は私にとって個人的な友人でもあるし、何とか賞品としてのトランジスター・ラジオを工面してあげたいが、残念ながら自分は一台しか持っていない。困ったな、大使館としては政府や公的機関からの要請には応え易いのだが、個人からの要求には一切応えられないとの原則があり、特例を認めることは困難であることを理解して欲しいんだ」
 両者の間で若干の沈黙があり、ペリシエ書記官は急に思い立った様に言った。
「そうだ、君は当国では東京オリンピックの英雄だし、トランジスターと言えば日本製が一番。そうだよ、日本大使館を訪れ、相談してみたら良い」
 ペリシエ書記官の顔には、やっと重荷から解放されたかのような、しかし、何となく多少の後ろめたさが残るかのような笑みを浮かべているのをンディアエは見逃さなかった。
「そうですね。ありがとうございました」と、ンディアエは短く相槌を打って席を立った。ンディアエは、特に失望した訳ではないが、笑顔でペリシエ書記官と再会を約しつつも、何か裏切られたような気持ちを心のどこかで拭い去れなかった。
ンディアエは、その足でフランス大使館からさほど離れていない日本大使館に足を向けた。ンディアエは、オリンピックから帰国して以来、常連招待客リストに載っているようであり、日本大使が主催するレセプションや大使館の諸行事には、招かれるままに出来るだけ出席するようにしてきた。今年の四月に催された天皇誕生日レセプションでは、鈴木文化担当書記官と懇意になった。さて、まだ転勤しないで当地にいるだろうか、やや不安はあった。
 鱗状で濃灰色の分厚い樹皮をもつ巨木マホゴニー並木の落とす影は、歩道を歩く人々を強い日差しから守ってくれる。そして、その影は、やや消沈気味のンディアエを僅かながらも癒し、慰めてくれる程度の涼しさを与えてくれていた。
 ラミンゲイ通りを独立広場の方に向かい、外務省の裏手の”クロワ・ド・シュッド(南十字星)ホテル”の横の道を港の方に緩い坂道を下っていくと、左手に七階建で新築のオフィス・ビルがある。その二階全フロアーを日本大使館が占めていた。大使館はその二階のベランダから、あの懐かしい日の丸を旗めかしていたので、外からも容易にその所在を知ることができた。やや薄暗い階段を上ると踊り場の壁に日本大使館との表示が金文字の日本語とフランス語で書かれ輝いていた。ンディアエは、木製の重い扉を開き、受付の男に来意を告げると、機械的に、
「ご予約はありますか」と尋ねられた。しかし、その男は、間髪入れず、
「アッ! ディアエさんですよね」と、自分があのンディアエであることを直ぐに気づいてくれた。
「鈴木書記官は、あいにく、外出中ですが、もう直戻りますので、どうぞロビーでお待ち下さい」と、応接室に案内してくれた。自らディアロと名のるその受付の男は、”今日の日本”と題する美しい日本紹介のグラビア雑誌を持ってきてくれた。グラビアに掲載されている写真を一枚一枚ながめていると、あの美しい国・日本での感動と胸のときめきが彷彿と甦ってきた。
ンディアエは瞬間、時が立つのを忘れていたようだ。ふと、背後に人影を感じ、振り向くと、そこにはいつの間にか鈴木書記官が笑顔で立っていた。鈴木書記官は、自分の来意を聞くことなく、たった今、ある中央官庁の高官に呼ばれ、同役人の事務所を訪れて戻って来たころであるとして、次のような話を切り出した。それによると、その高官は仕事の話はそこそこに、
「ムッシュ・スズキは何人のお子さんをお持ちかな」と、聞くので、鈴木書記官は、
「残念ながら、まだ一人もいません」と答えると、その後はこんな会話になったそうだ。
「私は、もう子供が五人おってな、近々六人目の子供が生まれるんだよ。また、お産代やら誕生パーティー等々、何かと出費が見込まれ、頭が痛い毎日ですわ」
「確か二ヶ月前にも、おめでたがあったと記憶していますが」
「あれは四番目の女房の時で、今回は第二夫人の子どもなんだよ」
 回教の教えでは、ゆめゆめ若い女房殿ばかりにお金や愛情を注いで、糟糠の妻に対して手抜きがあってはならないとの尊い教えがあることを鈴木書記官は実感として理解できなかったようだが、これが出産のお祝いに絡ませた、やんわりとしたお金の無心であることは理解できたようである。
 また、鈴木書記官は、偽リセ・プルフェッサー事件の話をしてくれた。これも我が同胞によるたかり話の一つである。
 ある日一人のそれなりに身だしなみの良い中年男性が広報窓口を訪れてきた。
「自分は、ルガ(ダカール北部にある地方都市)にあるリセ(高等学校)のプロフェッサーであるが、クラスで是非、日本のことを教えたいので、日本を紹介する資料を提供して欲しい」と申し出る。受付の者がいろいろな広報資料を揃えて手交すると、そのプロフェッサーなる男は、お礼を言いつつ、
「ところで、日本人のスタッフの方はいらっしゃるかな」と問うので、受付のディオップが、
「どのようなご用でしょうか」と尋ねると、
「いや、直接、日本人の書記官とお話ししたい」と固執する。ディオップがしかたなく、鈴木書記官に話をつないだ。書記官が窓口にでると、
「いや、すばらしい資料をたくさんいただきましたありがとうございます。ところで、誠に申しづらいのだが、今日は早朝より何かとあわただしく家を出てきたので、朝食をとる時間がなかった。また、帰りのバス代も持たずに出てきたため、少しばかり朝食代とバス代を所望したいのだが・・・」と結局は無心が主目的であることが判明する。
 鈴木書記官は、相手がプロフェッサーと名乗っている以上、内心、クラスで日本のことを悪く紹介されても困ったものだと思ったが、受付のディアロに対しては、常々、窓口で金の無心があった場合には、その場で断るよう指導している手前、
「残念ながら、大使館と言うところは人にお金を貸すところではありません。」ときっぱりお断りした。すると、その男は、
「大使館というところは、どこもかしこも恰好ばかりつけているが、皆、ケチでしょうがない」とブツブツ言いながら、資料など見向きもせず立ち去ったのとの話である。
 我々は、長い間の植民地化の歴史の中で、与えられることに慣れすぎてしまったようである。しかし、”人に何かを与える喜びを、人に与えてあげる。”ことは、必ずしも恥ずべきことではないとの考えも解らないではなかった。ここでも我が同胞が手を変え、品を変え外国人に無心している実情を再び知らされた。
 先日、ダカールの町で乞食たちがストライキを打ったことで、新聞紙上でその話が取り上げられたことがあった。一般的に言えば、乞食がストライキをしようとしまいと何か問題になるかと思われる方もいるかもしれないが、それがセネガルというお国柄、多少厄介な問題となってしまった。ダカールに実際、何人の乞食が居るのか統計があるわけではなく、確かではないが、その時の記事によれば千人を超える乞食がいるようである。ある日のこと、その乞食たち全員が一斉に警察により、市内から排除される事件があった。ことの起こりは、フランス帰りの商工省国際見本市局長が、近く開催が予定されている“ダカール国際見本市”に際し、諸外国から多数の来訪者が集まる期間だけも、市内に乞食が目立つのは体裁が悪いとして、警察力を動員して、町中の乞食を一時的とはいえ根こそぎ、郊外へ追放してしまった。さて、フランス帰りのインテリ局長ではあるが、何かあるたびに、習慣としてマラブーと呼ばれる占い師にお伺いをたてることにしていた。このマラブーによる占いや祈祷を受けることは、セネガルにあってはごく普通の習慣となっている。局長自身、子供頃は病気治癒の祈祷を何回も受けている。今回の占いは、ダカール国際見本市が成功するかどうかを占ってもらうことにした。局長は、現金を裸のままマラブーの手の中に握らせた。マラブーは、その金額がいつもよりやや奮発されていることを手短に拝見したのち、きんちゃく袋の中から二十個くらいのピンクがかった宝貝をおもむろに取り出し、棕櫚の葉で編んだ円形のお盆の上に、なにやら呪文を唱えながら、ばら撒いた。その散らかり具合で、いくつかのグループに分けて、何度か同じような仕草を繰りかす。そして、マラブーはおもむろに、
「この見本市は大勢の人を集め、大成功するであろう」とのお告げであることを局長に伝えた。それに加え、聞かれてもいないことなのだが、
「そなたは、そのうち大臣にまで上り詰めるであろう」とのありがたいご宣託があった。
局長は、心から満足し、胸がワクワクした。
「ただし、」と、マラブーは付け加えた。
「そなたは、町にいるお貰いさんたちに、十分な施しを与えるような、大きな心を持たなければならない」との条件が付いているとのことであった。
さあ、局長さんは困ってしまった。自分も将来は大臣になりたいと思っていたし、是非、なりたいとも思っていた。しかし、マラブーのお告げは絶対である。一旦、追放した乞食たちを、何とかダカールに呼び戻さなくてはならない。町の乞食たちはいくつかのグループに分かれており、それぞれのグループにはそれぞれ親分がいる。乞食たちは毎朝、それぞれの親分の家を訪れ、ご機嫌伺いをした後、乞食業の必需品であるゴザと空きカン、それにそこに出入りする者には普通は不必要なのであるが、要望があれば、乞食ルック用の衣装も貸してもらえる。そうして一人前の乞食姿になってから、それぞれの職場、つまり縄張りへの散らばっていくのである。そして夕方までに、稼いだ小銭を持ってまた親分の家に参集し、拝借した物をお返しし、上納金を親分に差し出すとのシステムになっているようである。信心深い彼らは、決して上がりをくすねたりしないので親分も安心していられる。
局長は、さっそく自ら親分一人ひとりを訪ね、
「親分、何とか私の顔を立てて欲しい」と懇願するも、親分たちはこの局長が、今般の追放計画の張本人であることを知っていたので、いつもなら縄張り争いで対立している親分集も今度ばかりは一致団結して、町への復帰を拒みストライキを打ったのである。
 この騒ぎは、政府首脳にも知るところとなり、この局長は無慈悲で、野心家であるとして免職されてしまった。これが、世に言う、“ダカール乞食のストライキ事件”の顛末である。
ンディアエ自身、結局は物乞いのため、こうして外国公館を訪れているのであるから、与える者と与えられる者との関係で言えば、与えられることを期待している者の一人に過ぎないのではないかと自問せざるを得なかった。しかし、この世の中には、与える者と与えられる者の二種類しかいないことも事実であり、どちらの立場にも優劣はないはずと、自分に言い聞かせつつも、村落対抗サッカー大会のための賞品の提供とボールの提供を申し出るまでに多少時間を要したことは事実であった。
第四章 ボールが村にやって来た
 ンディアエは、やっと今日の来館の趣旨を鈴木書記官に打ち明けることが出来た。
 鈴木書記官は、これまでの話にも拘わらず要すれば無心に来たンディアエに嫌な顔一つせず、とりあえずの個人的な考えとしつつ、すばらしいアイディアと情報を提供してくれた。
 まず、大使館には新任大使が着任後、任国の政府要人等に供する目的をもった贈答品が用意されており、その中には日本の伝統工芸品の他、トランジスター・ラジオも含まれているという事実と、その内の一つくらいは文化活動の目的にも利用できるであろうとのことであった。
「何度も説明したように、大使館としては個人からの金品の要求に応える方途はないけれど、グループや、地方自治体からの要求であれば何とかなるかも知れない。これはどこの国の大使館においても多かれ少なかれ事情は同じだと思うよ。そこで、いくつかの大使館を訪れ、それぞれの国名をそれぞれの村の冠として使用させてもらうことを説明してみなさい。そうすれば各国とも一応、自国の名前を使用している村を支援する形になり、何らかの支援を検討してくれると思うよ」とのアイディアを出してくれた。
 ンディアエはなるほどと思った。
「つまり、疑似国際試合の形をとるわけですね」と、このアイディアの趣旨を明確に把握した。
 鈴木書記官は付け加えた。
「他の国の大使館が支援するのに、日本だけが協力しない訳にはいかないと言うのが、メンツを重んじる日本の泣かせどころだよ。日本を落とすには、正面からではなく、まず外堀から埋めろ」という”極秘”の日本攻略方法を授けてくれた。
 若者の遊びの延長に過ぎない地方の村のサッカー対抗試合のために、自分の国の政府だってそう簡単には支援してはくれまい。しかし、各国大使館が協賛し、例えば決勝戦に各国大使が出席するというようなことなれば、さっきのアイディアの延長として、青年スポーツ庁も黙って見過ごすことは出来まい。この奇抜な発想は、結構、実現性のあるものだと感心した。
 さて、次はそれぞれの村をどの国名を冠するかだが、ンディアエは、それぞれの村の持つ特色を頭の中で照合しつつ、一人で微笑んだ。
 毎日のんびりと木陰に集まって、お茶ばかり飲み明かしているあの村はモロッコとしよう。
 一番広い地域で、人口が最も多いあの村は中国。
 マンゴ、パパイヤ等果樹園のあるあの村はブラジル。
 カナダからの援助でラジオのアンテナ塔を有するあの村は当然カナダ。
 フランス人の宣教師がいてカトリック教会のあるあの村はフランス。
 今までの試合経験から一番強そうなあの村はスペインかイタリアにしよう。
 さて、自分の村だが、まわりの村人から常々、
「おまえの村の連中は、まったく働き者ぞろいだな」と、言われているから、やはり勤勉の国”日本”としよう。ンディアエは、頭の中でいろいろ考えながら、実施目処がついたことに胸を撫で下ろした。
「ムッシュ・スズキ、一度是非、我が日本村を訪れてくださいよ」と、鈴木書記官を誘った。何はともあれ、まずはこのにわか作りの日本村の村民と会ってもらいたかった。鈴木書記官は、近いうちに広報活動を兼ねて、村の様子を見に来てくれることを約束してくれた。
 大使館の広報用公用車ランドローバーで砂ぼこりを立てながらくだんの文化アタッシェがわが村を訪れてくれたのはそれから二週間後の週末の午後であった。
 ンディアエは、村へつながる沿道で、子供たちに日の丸の小旗をふらせて、鈴木書記官を出迎える体制をとっていた。日本の外交官が初めてこの村を訪れると言うので、自分の伯父に当たる村長のンボッジも全面協力を買って出てくれ、村の中央広場での歓迎会を準備してくれた。
 鈴木書記官と同行の現地職員のタル君は、タムタムのリズムと女たちのダンスで盛大に迎えられた。着倒れのセネガルと言われるだけあって、女たちの衣装は目に華やかであった。原色豊かな大きな柄が描かれた長袖のブーブーを身にまとい、共布のスカーフを縮れた頭に巻き付けている。彼女達は、タムタムの激しいリズムに合わせて、やや腰を後方に突き出し、大地を蹴りつつ砂を巻き上げ、激しくステップを踏みつつ、その突き出した尻をセクシーに左右に振り挑発的なポーズをとって踊った。また、その長いスリーブは、両手を大きく広げハタハタと揺らし、その衣装の美しさを強調していた。
 鈴木書記官には、このような激しいリズムと官能の歓迎を受けてもらった後、村長から記念品としてヤシの葉で編まれた大きな篭が贈呈された。
 大使館からは、約束のトランジスター・ラジオと革製の新品のサッカー・ボール一個が青年団の代表に手渡された。周囲から大きな歓声と拍手が沸き起こった。それはトランジスター・ラジオに対してなのか、ボールに対してなのかは定かではないが、新品の革製のボールが白く輝いて見えたことは事実であった。少なくともンディアエの目にはその白さは大粒の真珠の輝であった。 この贈呈式は、ンディアエにとり、自分と日本との関わりを改めて強く考えさせられる出来事となった。もちろんこの時のンディアエに、自分が二千二年のW杯の機会に再び日本に行く機会が来ようとは考えもおよばなかった。
 その夜は、村での歓迎夕食会が催された。羊の丸焼きとヤシ酒での歓迎であった。その後お返しに、大使館より持参した野外広報映画会を開催した。スクリーンは、ヤシの木と木の間にロープでしっかりと張り渡された。日没をまって、“東京オリンピック”と“今日の日本”と題する二本の十六ミリ・フィルムが上映された。初めて画像で見る日本の姿に村人は感激して、歓声をあげたり拍手をしたりして大喜びであった。画面が風に吹かれて歪むことなど、何の問題もなかった。“東京オリンピック”の中で、ンディアエが登場する場面が一か所だけある。開会式の行進の時の場面である。その部分だけは、強いリクエストがあり、ストップモーションにしたり、逆回しをして何度も何度も見ることになった。その都度、笑い声とともに、
「ンディアエ!」「ンディアエ!」の歓声が上がった。当のンディアエにしてみると、あの行進の時は、感激で足元が震えていたことを思い出し、なんとなく照れ臭かった。その後の画面では、アジアで初めてのオリンピック、IOCブランデージ会長の挨拶、天皇陛下による開会宣言、百六十三段の上にある聖火台に点火した最終ランナーは千九百四十五年八月六日の広島原爆投下の日に生まれた青年であることがフィルムの中で解説されていた。セネガルにおいては、第二次世界大戦後の日本のことや、原爆のことはあまり知られていない。大帝国ロシアを破ったアジアの小国・日本から、一足飛びにオリンピックをやった国・日本へとその知識が飛んでしまう。ンディアエにとって、日本と自分との関わりを強く感じた一日であった。
週末であることもあり、鈴木書記官は、その晩はダカールに戻ることなく、村からさほど遠くないニャニンと言うところにある有名なヴァカンス村のホテルに投宿することになっていた。この村はヨーロッパが冬の間、避寒地として主にヨーロッパ人で賑わう地域である。鈴木書記官の誘いを受けて翌朝は、そのホテルで朝食をともにすることになった。
 その村までは、公道を行くとちょっと距離があり車が必要だが、海岸を浜づたいに行くと、歩いて三十分程度の距離であった。ンディアエは、その村に何となく好感を持っていなかった。というのは、その村が海岸づたいだったこともあり、子供のころ、ちょっと遠出すると、外国人ばかりのそのヴァカンス村が管理するプライヴェート海岸に自然と紛れ込んでしまうことがあった。そんな時には、ムチの様にしなる細い棒を手にした強面の警備員のオッサンがやってきて。
「こら! ここはお前たちのくるところではない。出て行け!」と、怒鳴られ、追っ払われた経験があるからだ。それからというものは、その地域は自分たちとは関係ない世界として寄りつくことを避けていた。
 翌朝は、少し早めに起きたものの、昨夜の打ち上げで飲んだヤシ酒が、まだ頭の中に残っている感じがしたが、爽やかな朝風は心地良かった。ンディアエは、近道の海岸づたいに、白い砂浜に点々と自分の足跡を残しながらホテルに向かった。遠くに朝日を受け、緑につつまれた白亜の建物が見えてきた。白い砂浜、色とりどりのビーチ・パラソル、白亜の建物、そんな構図をセネガルの観光絵葉書でみた記憶がある。
 砂漠化が進んでいるセネガル周辺のサバンナは、砂による緑の浸食が著しかった。しかし、このヴァカンス村は別天地であった。乾期にはスプリンクラーで地下水が十分散布されており、バナナ、パパイヤ、マンゴといった果物、ヤシやソテツといった大物の木々、ブーゲンビリヤやハイビスカスといった色とりどりの花が咲き乱れ、植物園さながらの庭は、ヨーロッパ人の描くアフリカというイメージを十分満足させていた。
 それらは確かにンディアエの目にとっても美しいものと映ったが、自分たちが生活している実際のアフリカとは縁遠いものであることは事実であった。慣れない環境の中、約束のプールサイドにあると言われたレストランに向かった。きらきらと輝く、透き通った水を満々とたたえる大きなプールは、日中に訪れるであろう白い肌の来客を待ちかまえているかのように静かであった。ヤシの葉で吹かれた屋根を持つプールサイド・レストランは、焼きたてのソーセージの匂い、炒り卵、ハムやチーズ、果物の山々である。今朝、一杯の煎じ茶ケンケリバを飲んだだけで出てきたンディアエの目と胃袋には刺激が強すぎる眺めであった。
 約束の八時になろうとしていた、ロビー方向から鈴木書記官が笑顔でこちらに向かってくるのが見えた。
「ナンガデフ!(おはよう、ご機嫌如何)」挨拶をそこそこに、鈴木書記官が、まずは食事をしようと誘ってくれたことが有り難かった。食事中はほとんど、ンディアエ側からの質問に終始した。鈴木書記官からは、ンディアエが進めている国内スポーツ大会の組織化との関係で、日本で毎年行われている県対抗の国民体育大会の話を興味深く聞いた。またその運営方法等を研修するための招聘プログラムが日本にあることを知ったことは収穫であった。
「突飛かも知れないけど、いつの日かセネガルをアフリカで最初にサッカーのワールド・カップを開催する国にしたいんです」と、ンディアエは言った。これはンディアエの口から出てきた咄嗟の思いつきであった。
「セネガルで初めての国際サッカー親善試合は、すでに君の村で実現しているじゃないですか」 鈴木書記官は笑いながら言った。
「そうでしたね」と、ンディアエもその笑いに参加した。
「それでは、アフリカで初めてのワールド・カップ開催に乾杯!」
 二人はマンゴ・ジュースの入ったグラスで乾杯した。
 二人は時の経つのを忘れて話し込んでいたが、プールサイドの人のざわめきと、水しぶきの音で、太陽が高まりつつあることを知った。
第五章 恩義は忘れない
雨降り止まぬ中での熱戦にンディアエは日本・トルコ戦に釘付けになっていた。トルコは序盤にMFのユミト・ダバラが先制のゴールをあげ、世界ランキング第八位の強さを見せつけた。日本側は観客の圧倒的なサポートを背景に、まずは同点めざし果敢に攻撃を仕掛けていた。日本とトルコではその世界ランキングだけではなく、世界大会での経験も雲泥の差があった。しかし、日本はグループHを一位で突破してきたチームであり、トルコとしても決して息の抜ける相手ではなかった。先制の一点を取ってからのトルコ側の試合運びは、素人にも読めるような姑息な作戦をとった。トルコはボールを一旦キープすると、パスを大切に、時間をかけて回すことにより、試合のテンポを自分たちのものとしてコントロールすることに徹していた。確かに日本にも得点のチャンスは何度かあった。しかし、終盤での日本の焦りは、そのままトルコの余裕につながっていることを感じたのは、ンディアエのみならず、観客の歓声の中にも読みとることが出来た。試合終了のホイッスルの音は落胆に満ちた観客のどよめきと重なり合って聞こえた。トルコは序盤の一点を守り抜いた。それは同時に日本の準々決勝への進出、そして日本とセネガルの対戦の夢を打ち消すことを意味していた。
「アーッ!」 ンディアエの夢は閉ざされた。ンディアエにとっては余りにも辛い一瞬であった。しばし席から立ち上がることが出来なかった。勿論、このスタジアム全員の日本人が落胆のどん底あったことは事実だが、そんな中にこれほど落ち込んでいるセネガル人が一人いることなど気がつく者はだれもいなかった。
 ンディアエのここまで道のりは余りにも遠かった。そして多くの年月が経過していた。また、ンディアエは、日本でのワールド・カップ開催が決定されるまでの長い道程と、その厳しい前哨戦を知る数少ない人間の一人であった。ンディアエが、アフリカ・サッカー連盟(CAF)で選出され、FIFA理事会の理事に就任したのは、今から八年前の千九百九十四年に遡る。その年、ンディアエは、約三十年間勤めたセネガル青年スポーツ庁をスポーツ局長の職を最後に退職した。また、同時にセネガル・フットボール連盟の事務局長にも就任した。これ自体は一種の名誉職のようなものであったが、FIFAの理事ともなると、そうは言っていられない。FIFAの理事会には合計二十人の理事がおり、アフリカ枠としては三つの席が割り当てられていた。その内の一つをンディアエが占めることの重大さや、二千二年のW杯開催地を巡っての熾烈な戦いの中に身を置くことになろうとは、その時のンディアエには知るよしもなかった。しかし、FIFA内部に大きな権力闘争があることを知るのには余り時間は掛からなかった。就任早々に浴びせられた同僚理事からの祝意の中には、お前は我が派閥に入いれと暗に促す言葉が含まれていることが解る程度に辛辣なものであった。ヨーロッパ・サッカー連盟の会長でFIFAの副会長でもあるアンデルセン理事の言葉の中には、アフリカの理事はヨーロッパ連盟の言うことに従えばよいとの思い上がりを読みとれることが出来た。
 ンディアエにとっては、勿論、後日知ることになるのであるが、ンディアエがFIFAの理事になる以前の千九百九十一年六月、日本では既に二千二年のW杯を日本に招致するための推進母体としての民間団体、「W杯日本招致委員会」が発足していた。静かにではあるが日本の活動は官民一体となって動き始めていた。当時、全世界におけるFIFA理事の総数は二十。その内訳は、ヨーロッパが八、アジア三、南米三、北中米カリブ海三、アフリカ三である。右に加え世界サッカー界の長老、ブラジルのスプリシはその時すでに約二十年に亘りFIFAの会長職を独占していた。日本招致委員会が真っ先に目をつけたのが、このスプリシであった。彼はブラジルでも日系人の多いサンパウロの出身であり、若い頃には日系人のガール・フレンドが居たとも言われている。知日派であると共に大の日本贔屓であった。日本は彼の影響力を背景に、まずは日本と歴史的に太いつながりがある南米、中米、カリブ海諸国を押さえる作戦に出た。つぎは大票田であるヨーロッパの理事八人に何とか食い込まなくてはならない。アフリカの三票は、欧州の理事さえ押さえておけば、自動的に獲得できる票であると誰もが考えていた。しかし、この常識が後で大きな読み違いになることを誰も予想していなかった。
 さて、千九百九十四年には、日本での開催を阻む大きなうねりが、その年初から始まっていた。その年の一月、韓国サッカー連盟は日本に対抗すべく遅ればせながら、二千二年W杯の韓国招致委員会を発足させた。日本のそれと比べると約二年半遅れてのスタートであった。しかし、韓国の強みは政府・財界が一丸となって招致活動を行える体制を作ったことにあった。また、その背景には日本への歴史的対抗意識と言うか「遺恨」にも似た巨大なエネルギーが秘められていた。ヨーロッパ理事の抱き込み合戦は熾烈を極めてきた。オリンピック招致合戦並の、あるいはそれ以上の激しい獲得作戦が展開されていた。しかし、アフリカ理事への工作はそれほど目立ったものとはなっていなかった。まだその時点では日本も韓国も取りあえずヨーロッパと言う大票田を固めておけばという考えが根底にあったようである。
 韓国より早く招致活動を始めていたはずの日本が初めて挫折を味わう事件がその年の五月に起こった。アジア・サッカー連盟から選出された候補者の中から選ぶFIFA副会長選挙において、日本の候補が落選し、韓国サッカー連盟副会長の朴氏が当選した。これはヨーロッパ各国のサッカー協会の主要役員を短期間のうちに、集中的に韓国へ招聘する作戦に出た韓国の勝利であった。このFIFA内の要職に韓国が食い込んだことが後々、二千二年W杯招致合戦の結果に大きく影響することは目に見えていた。この時以来FIFA内の重要情報は一方的に韓国のみに流れ込んでいくことになった。
 FIFA理事会の一員となったばかりの新参者のンディアエにも、FIFA内部に大きな対立構造と言うか勢力争いがあることはすぐに気がついた。そもそも大きな歴史的な流れとしてFIFAには長い間、世界サッカー界での因縁の本家争いが南米とヨーロッパの間にあった。第一回サッカー・ワールド・カップが開催されたのは、千九百三十年七月、南米のウルグアイであった。千九百二十九年に世界を襲った経済恐慌からまだ立ち直っていないヨーロッパ諸国にはそれを主催する余力のある国はなかった。世界恐慌に無縁であったウルグアイは、世界十二ヶ国からの代表団全員を招待することにより、名誉ある第一回世界大会開催地としての地位を得た。いわゆる丸抱え開催である。開催地招致に向けての前哨戦に加え、開催国が使う金とエネルギーの大きさは今も変わらない。この怨念というか、ヨーロッパ対南米といった対立の構図を、千九百九十四年の今になっても引きずっているように見えるのも不思議であった。
 FIFA会長の職をブラジルが二十年近く占めていることに、ヨーロッパ連盟の会長でありFIFA副会長であるアンデルセンは常々不満をもっていた。次期会長をねらう立場からも、今回の日本と韓国の招致合戦をヨーロッパ対南米と言う構図の中で利用出来るのではないかと考えるようになっていた。
 先のFIFA副会長戦で勝利し、そのポストの一つを獲得した韓国は、翌千九百九十五年二月、ついに日本に対抗して、アジアで初めてのワールド・カップを韓国で開催するための立候補宣言を行った。ここから本当の意味で日・韓両国がその招致に向けてサッカー場外での死闘に近い戦いを開始することになった。ンディアエ自身やアフリカ・サッカー連盟役員への働きかけも活発になってきた。ヨーロッパの理事たちは全員、順次、韓国からの招待を受けてソウルに飛び立て行った。南米を含む米州の理事は日本に押さえられていると読んだ韓国は大票田のヨーロッパ攻略に全力を投入した。ヨーロッパを押さえておけばアフリカの三票は自ずとついて来ると相変わらず考えていた。確かにアフリカのサッカー界は財政面でも、優秀な選手の活躍の場としても全面的にヨーロッパ諸国に依存していることは事実であった。セネガル・ナショナル・チームの監督は歴代フランス人が占めてきたし、セネガル・ナショナル・チーム二十三人全員がフランスを中心としたヨーロッパのどこかの国のクラブ・チーム等に所属し、その生活基盤もヨーロッパ諸国にあった。FIFA内の当時の読みとしては、ヨーロッパの八票を韓国が押さえ、アジアの二票、南北アメリカとカリブ海の六票の合計八票を日本が押さえるだろうと考えられていた。これはすなわちアフリカの持つ三票がキャスティング・ボードを握ることになる。ブラジル国籍のFIFA会長は、二千二年のW杯は日本で開催することが順当であろうと公言してはばからない人物であった。また、世界のサッカー界の長老として隠然たる影響力をもつ頼もしい人物であった。しかし、同会長への対抗意識に燃えるFIFA副会長のアンデルセンは、韓国選出の新副会長である朴氏と手を組んで、韓国での開催に向け巻き返しを計るべく、FIFA理事会での工作を開始した。千九百九十五年六月の理事会において、何はともあれFIFAの公式調査団を日本と韓国の両国に派遣し、現地事情を調査すべしと議決することに成功していた。右に加え同調査団の団長として、韓国開催支持派の最右翼とも言われていたドイツの理事を任命させた。そしてその年の十月から十一月にかけてこの調査団が日・韓両国に派遣されることになった。前評判では大会運営の財政能力及びスタジアムの建設進行状況に照らし、日本が優位に立っていることが指摘されていた。しかし、日・韓両国を視察し帰国した調査団長であるドイツ・サッカー協会事務局長が作成し、FIFAに提出した報告書によれば、驚くことに両国の開催能力には全く差がないとの結論になっていた。その後の両国の招致合戦は一層激しくなったことは言うまでもない。
 韓国は、引き続きその招致活動の主力を各国首脳やそれぞれの国のサッカー協会役員をソウルに招いて歓待するといったオーソドックスと言えばオーソドックスな戦法に重点を置いた。いずれにしても切り崩す先はアフリカの持つ三票にあることは自明の理であることから、韓国は「禁じ手」とも言われる手も使ったようである。つまり、南ア出身のFIFA理事であり、アフリカ・サッカー連盟の会長に対し、次々回の二千六年のW杯は南アでの開催に賛成するとの約束を与えたようである。もちろんこの甘言に南アの理事が気分を良くしたのは事実であり、アフリカ票のとりまとめを約した。
 これに対し、日本のアプローチはやや迫力に欠けるものであった。例えばンディアエへのアプローチと言えば、ダカールで行われる日本の国祭日(天皇誕生日)レセプションへの夫妻での招待、日本から来た招致委員会のメンバーがセネガルを訪れた際に政府要人と共にその一人として大使公邸で開かれた夕食会に招待された程度の地味なものであった。もっとも日本の招致委員会は、これもある意味で「禁じ手」であるのだが、セネガル・サッカー連盟との接触の際に、同委員会は日本のODA実施機関でもないのに、日本招致を支持してくれれば、日本政府からセネガル・サッカー協会にスポーツ施設建設の支援やサッカー機材の供与があるかのような約束に近い発言を行っていたことが、後日判明した。日本のODA政策は、当時一段落したアジア中心の援助政策から、援助支援のフロンティアとしてアフリカ諸国への援助に目が向けられ始めた時期であった。冷戦下のアフリカは国の数が多いだけに、東西両陣営の勢力圏争いに弄ばれる格好の場所を提供していた。日本はアフリカ諸国に対する植民地政策から歴史的に無縁であったこともあり、比較的クリーン・ハンドで変なしがらみを持たずに、アフリカへの支援を差し伸べることが出来ると考えていた。特に冷戦後はアフリカから欧米諸国が手を引き始める兆候があった。それはアフリカが自立できる体制が出来たからではなく、引き続き貧しさは続いていた。日本は国連の安保理常任理事国就任を一つの外交目標に掲げた。アフリカは国連での大票田である。この目標とアフリカ諸国への接近が無縁であるはずはない。しかし、それとは別に東京で千九百九十三年十月に開催された第一回アフリカ開発会議は国際社会がアフリカに対する関心を失いかけていた時期に、アフリカへの関心を呼び戻すきっかけを創出したことも事実であった。日本は、
「アフリカ問題の解決なくして、二十一世紀の世界の安定と繁栄はない」と、大見得をきってアフリカへの支援を本格的に開始した時期と符号していた。
このような時代背景の中、日本はアフリカ諸国への援助額の倍増計画をもって、日本への招致活動を行っている日本サッカー協会や招致委員会の下支え的役割を担った。事実、日本への期待と信頼は高まった。このような中、韓国はもっと直裁的な攻撃をアフリカ・サッカー連盟に仕掛けていた。外からはヨーロッパ・サッカー連盟からの圧力、内側からは、アフリカ・サッカー連盟会長である南アの理事に対しアフリカ票のとりまとめを強く要請していた。南アの理事にしてみれば、新参の理事であるンディアエを抱き込むことは容易なことと見くびっていた節がある。もう一つのアフリカ票はモロッコであり、モロッコもセネガルと同様フランスの影響下にあることは明白であった。南ア理事からの耳打ちにンディアエはきっぱりと言った。
「私には、忘れられない日本からの恩義がある。二十年前、日本の一人の外交官は、自分の要請を快く受け入れてくれ、村の子供たちのためにサッカー・ボール一個を寄贈してくれた。その時の、そのボールを蹴って育った子供が今、セネガル・ナショナル・チームの一員になるほど成長してきている。自分には自由投票させて欲しい。いや、私は日本での開催に賛成の一票を投じます」
 南アの理事は、このンディアエの迫力に返す言葉がなかった。結局アフリカ連盟としては、各理事の自由意志を尊重するとの結論に達した。
 千九百九十六年五月三十一日、二千二年年W杯の開催地を決める運命のFIFA理事会がローザンヌのサボイ・ホテルで開かれた。投票結果は次の通りであった。
 韓国開催支持:欧州七、アジア一、アフリカ二の計十票。
 日本開催支持:欧州一、アジア二、南北米州カリブ海六、アフリカ一の計十票。
 投票結果は完全に二分された。
 欧州票中の日本支持一票は、FIFAで財政委員を勤めるデンマークの理事が、財政面での開催能力は日本が上であるとの独自の判断から日本に支持票を投じた。アフリカの一票は勿論ンディアエ票に他ならない。
 以上の結果、会長であるブラジルの代表が決定権を持つことになった。日本贔屓で知られるワンマン会長は、最後まで悩んだ結果、FIFA全体の融和を考慮し、日韓共同開催と言う前代未聞の二カ国での同時開催という英断を下した。ンディアエは勿論これに満足であった。このブラジルのオヤジは単なるワンマン・オヤジではない、サッカーを本当に愛しているんだと感じた。
第六章 仙台から浦和へ
 ンディアエは、雨降りしきる宮城スタジアムを後にした、最寄りの駅までを繋ぐシャトル・バスは使わず緩やかな下り坂を歩いた。そうしたかった。山を切り開き急ごしらえの閑散とした周囲の雰囲気が今の自分の気持ちには相応しかった。ここは東京より数度は温度が低いと聞いている。襟を立てた。善戦むなしく日本はトルコに一対ゼロで負けた。この日本の敗退は、嘗て自分が東京オリンピックの予選で敗退した時にも感じなかった悔しさであった。息をすることが苦しいほどの悔しさであった。明日の浦和行きのことを思いめぐらすことで何とか気を紛らわそうとしてみたが、そうもいかずただ悔しかった。
 この時点でンディアエは、数日後、大阪スタジアムにおいて今日の勝者トルコとW杯準々決勝において格上のトルコを相手にセネガルは互角に戦い、ゼロ・ゼロで延長戦まで持ち込み、ゴールデン・ゴールをトルコに決められ一対ゼロでセネガルが負けることはまだ知るよしもなかった。
 今回のW杯においてセネガルは、誰もが驚く破竹の勢いで勝ち進んできた。五月三十一日には、Aグループ第一ラウンドで、前回W杯の覇者であるフランスをラミン・ディオップの一発で退けた。この時、ンディアエはAグループでの勝ち残りの予感を確かなものとしていた。この時点でンディアエは、二つの決意をした。さすがそこには今回のW杯で“優勝”するといった思い上がりの文字はなかったが。その一つは、次の試合である六月六日のデンマーク戦と六月十六日のスウェーデン戦において、セネガル代表が入場する際には二種類の三色旗、つまり赤・黄・緑のセネガル国旗と赤・白・青のフランス国旗の二流の三色旗を掲げて入場しようと決意した。
五月三十一日、ソウルのワールド・カップ・スタジアムでセネガルがフランスを破ったことは事実だが、これは正直なところ、フランスの第二チームがフランスの第一チームを破った程度のことであった。この気持ちは多分フランスとセネガルの歴史的背景や日常のつながりを知らない人々には奇異な発想と映るかも知れない。しかし、それが正直な気持ちであったし、そしてそれはンディアエに特有の個人的な気持ちでもなかった。このフランスへの勝利は、TVの同時中継を見ているセネガル本国の人々に熱狂と歓喜の波を送り届けていた。この勝利を受けて、ワッド・セネガル大統領はコメントを発出した。
「これから、われわれはセネガルのため、アフリカのため、そしてフランスのために闘っていく」
 これは、セネガルの大多数の人々の気持ちを代弁したものと言える。
 もう一つの決意は、二十年前のあの時、われわれセネガルの子供たちにサッカー・ボール一個を工面してくれた文化担当官の鈴木書記官が日本にいるなら日本で会いたい。今やアフリカの英雄になったセネガル代表のFWラミン・ディオップを鈴木書記官に是非逢わせたい。W杯予選でセネガルが獲得した総得点十四の内の九ゴールはこのディオップが一人で蹴り出した得点であった。あの時、村の浜辺で無心にボール蹴っていたあの男の子が今、ここにいるディオップですよと、鈴木書記官に紹介したかった。
 翌六月一日、ディオップはソウルの宿舎である高麗ホテルの自室から東京の在日セネガル大使を電話で呼び出した。シセ大使とはリセ(高等学校)の同級生であり旧知の仲であった。電話口に出たシセ大使は、対フランス戦勝利の祝いの言葉に続き、二つ返事でンディアエの頼み事を快く引き受けてくれた。それは、日本の外務省を通じ、鈴木書記官の現在のポストを確認してくれることであった。
 ンディアエはホテルの一室でシセ大使からの電話を待った。部屋のテレビではW杯初出場のセネガルが前回のW杯の覇者フランスを破ったことを絶賛する報道がそのゲームのハイライトとともに引き続き放映されていた。例えばイタリアがフランスを破ってもこうは報道されまい。これは韓国の報道関係者に何か新鮮な驚きを与える勝利であったようである。青い目のフランス人監督ジャン・ルソーはテレビの中のインタビューで、セネガルの勝因は同チームの持つ“友情と団結”だと明確に指摘していた。フランスのチームが個人技に走るばかりに忘れかけている友情とか団結といったチーム・スポーツの根底にあるべきスピリットをセネガル・チームは初々しく持ち続けてきたことを勝因の一つとして指摘するとともに、監督としてこれまで行われて来た試合後の選手たちとの親睦と友情を大切してきたことを強調していた。ややもすると外国人の監督は、高慢に指導する立場ばかりを前面に出したり、規則を押しつける警官になってしまうこともあると他の国のチームでの話を聞いたことがある。部屋の電話が鳴った。待ちに待ったシセ大使からの電話であった。鈴木書記官は現在オランダに在勤しており領事担当の参事官の任にあるとのことであった。同大使館の電話番号を教えてくれるとともに、東京での再会を約してくれた。
 ソウルとオランダの間には八時間の時差があった。ンディアエはその日の夕刻が待ち遠しかった。残念ながら、今回は鈴木氏と日本で会うことは出来ない。しかし、このセネガルの躍進の背景には、あの時の少年ラミン・ディオップがいることを電話でも良い、鈴木氏に是非とも伝えたい気持ちが逸っていた。ンディアエはその晩、韓国サッカー協会主催の夕食会に招かれていた。夕刻までには既にシャワーを浴び、こざっぱりした身なりに整えていた。なにか昔の恋人にでも久しぶりに電話するような気分になっている自分に気づき、一人でややテレた。鈴木氏が自分のことを覚えていてくれることを信じつつ、電話機上の数字を打った。
「はい、日本大使館です」 女性オペレーターの爽やかな声であった。ンディアエは自分の名前を名のると共に、鈴木参事官への取次を依頼した。
「はい、鈴木です」
「ンディアエです。昔、セネガルで青年スポーツ庁にいたンディアエです」
 鈴木参事官は、直ぐに自分のことを思い出してくれた。ンディアエは一人で興奮しながら、その後、自分がどうしてきたか、今、何をしているかを早口で語った。鈴木参事官がセネガルの勝利を既に承知していたことは言うまでもないが、現在の自分の立場とディオップの成長と活躍を心から喜んでくれた。
「そうですか、そうですか」と、本当に嬉しそうに何度も何度もうなずく姿が電話の向こう側に見えるかのようであった。この時期、日本に戻れないが、
「もし、今回、日本とセネガルが闘うようなことになれば、君は僕の敵だよ」と嬉しそうに笑い声で言った。
 ンディアエは、鈴木参事官に改めてお礼を言いたかった。当時鈴木書記官は、セネガルにおけるスポーツ大会の組織作りのアイディアを提供してくれると共に、大会運営の専門家の受け入れを支援してくれた。それは大使館と青年スポーツ庁間の仕事の話と割り切ってしまえばそれきりであるが、その時、村の若者のために提供してくれた一個のサッカー・ボールが今日のディオップを生み出したという事実は、仕事を超えた人の心と人の心とを結ぶ血の通った交流の結晶ではないだろうか。鈴木参事官は、
「ンディアエさん、ところで当時の婚約者であったアミナタさんとはどうなりましたか?当時、アミナタさんとの間でポリガミーのことでもめていたと聞いていましたが、ごめんなさいこんなプライベートなことをお聞きして」
 ンディアエは、鈴木氏がこんなことまで覚えておられることにびっくりしつつ、笑いながら、
「アミナタとの間に七人もの子供が出来ました。彼女はすでに小学校の先生を引退しましたが、今は孫たちに囲まれてとても幸せに過ごしています。彼女の希望通りポリガミーをあきらめ、妻は彼女一人だけですよ」と答えた。参事官は、
「それは、おめでとう。安心しました。ところで、ンディアエさん、あの時、私の力不足でたった一個のボールしか差し上げることができませんでしたが、現在もセネガルの子供たちはまだサッカー・ボールに不自由していますか」と尋ねてきた。
その時のこの鈴木参事官の質問に込められた背景をンディアエは実は理解出来なかった。多分また何か援助出来ることがないか程度の質問ではないかと思った。実は鈴木参事官は、あの時、たった一個のボールしか工面出来なかったことを、ズーと心の重荷と感じつつ今日まで過ごしていたそうである。
日本の援助にはいわゆるボールの様な消耗品の提供は出来ない、との原則があり、当時としてはたかがボール一個、されどボール一個、日本の役所ならではの難しい会計処理の壁があったようである。ンディアエは、そんなことはつゆ知らず素直に、
「はい、まだまだ不足しています」と、答えた。
「判りました」と、鈴木参事官は電話の向こうで短く答えた。日本で自宅がある浦和に在住している一人の日本人の氏名と電話番号を教えてくれた。鈴木参事官から、その人に電話を入れておくので日本に行ったらその人とコンタクトを取り、会って欲しいとのことであった。
 鈴木参事官によれば、浦和という町は戦前・戦後を通じ、日本サッカーの歴史の中で中心的役割を担った町で、その歴史は古く、九十年以上も前の千九百八年に、同地埼玉師範学校に赴任した細木何某によってサッカーが日本に初めて紹介された土地であり、日本サッカーの発祥の地とも言える土地柄であることを教えてくれた。また、その紹介された人は、浦和駅前で創業百年になるフランス料理店・明治屋の四代目当主・川口斉と言う人であった。その人は地元の中学時代からサッカーを始め、慶応志木から慶応大学のサッカー部へとサッカー一筋で来た男だそうである。また、その男は当時日本国内で全国的に動き出していた日本サッカー・リーグ・チームの一つを浦和に招致して町の活性化を図ることを目指し、浦和青年会議所を足場として、市や県議を動かし、浦和レッズというチームを浦和に立ち上げた功労者であるとのことであった。その川口氏と鈴木参事官の息子同士が慶応志木校以来の同級生という因縁で、今では家族ぐるみの付き合いの間柄であることも知った。
 ンディアエは、鈴木参事官の浦和での企てを承知しないまま、そして鈴木参事官の指示のまま、仙台から東北新幹線に乗り、大宮で高崎線に乗り換え一駅目の浦和で降りた。浦和駅西口に出た。駅前は日本語が解らないンディアエから見ても、今この土地がサッカー熱一色で埋め尽くされていることが容易に理解できた。改札口を出ると、そこには“MR.NDIEYE”と書かれた看板を手に掲げる中年の男性が目に入った。向こうにして見れば、一メートル九十の黒人の大男が改札口から出てくれば見間違いようもない。その男は笑顔で近寄ってきて、
「はじめまして、川口です」と、名乗った。
「ンディアエさんのことは、鈴木さんから詳しく聞いています」として、旧知の友人でも迎えるかの如く、暖かみを感じた。ぎごちなさのない自然な振る舞いで、駅前にそびえるデパートの裏手にある自分の経営するフランス料理店へと導いてくれた。
 川口氏によれば、在京大使館を通じて、FWのディオップも呼ぼうとしたのだが、セネガルは六月十六日の大分でのスウェーデン戦に勝ち、二十二日には大阪での強豪トルコとの準々決勝を控え、どうしても浦和まで来ることは出来なかったとのことであった。レストランの明治屋は、一階がケーキ屋で二階がレストランになっていた。年季の入った木製の階段を昇ると、そこにはシセ駐日大使が笑顔で待ちかまえていた。また、埼玉新聞の記者とカメラマンも控えていた。ひとしきりカメラのフラッシュを浴びた後、久しぶりのフランス料理に舌鼓を打ちながら、鈴木参事官が仕組んだ浦和での企みの全貌が明らかになってきた。
 鈴木参事官は、ンディアエからの電話を受けた後、直ちに川口氏に電話を入れたそうである。浦和は日本サッカーの発祥の地、沢山のサッカー・クラブが存在していた。川口氏は、鈴木参事官からの提案を受け、浦和レッズとコンタクトを取ると共に、埼玉新聞を通じて使い古しのサッカー・ボールの提供を市民に呼びかけてくれていた。これにより、この日までに既に八十二個のボールが明治屋に集まっていた。ボールの形のままだとガサ張るので、皆空気が抜かれ折りたたんで箱詰めにされていた。また、浦和レッズ友の会からは別途、足踏み式の空気入れ一ダースの寄贈があった由である。シセ大使は、これら厚意のボール等を、大使館が公用品として責任をもってセネガルまで運ぶことを約束してくれた。
今日のこの引き渡し式のことは、明日の埼玉新聞に掲載されるから、今後もボールが集まる可能性があるが、それらのボールが何個もなろうと、セネガル大使館が責任をもって本国のセネガル・サッカー連盟に送ってくれることになった。そしてンディアエには、近い将来そのボールをセネガル全土の子供たちが蹴り上げる姿が目の前に見えるかのようであった。これで何人のラミン・ディオップが生まれるのかと想像するだけで、ンディアエは胸を熱くした。二十年も前のことだが、鈴木書記官が手配してくれた、たった一個のサッカー・ボールが今こうして百個にも二百個にもなろうとしている。
「もし、一粒の麦、地に落ちて死なずんば・・・」である。ンディアエは、今回のW杯で実現しなかったセネガルと日本の直接対戦が近い将来必ず実現するようにとウォロフ語でつぶやいた。
「ブネヘヤラ!(神の祝福あれ)」と。